風呂に入った十六人 1/2話(出典:碧巌録第七十八則「十六開士入浴」)

かつて、バドラパーラ(跋陀婆羅)という男が、自分を含む十六人の仲間たちと一緒に厳しい修行に励んでいました。

ある日のこと、近所の人のご好意で風呂を使わせてもらえることになり、皆でぞろぞろと浴槽に入っていった時、バドラパーラは突然、こう叫んだとのこと。

「な、なんてこった! 我らが今洗っているのは、身体についた汚れでもなければ、身体そのものでもないじゃないか!

なるほど、これこそが「水」というものの本当のハタラキか・・・ 

私は今、触れるという不思議な能力によって、ようやく本物の修行者となることができたみたいだ!」

さて皆さん、これはいったい、どういうことなのでしょうか?

「身体についた汚れでもなければ、身体そのものでもない」ということであれば、いったい風呂で何を洗うというのでしょうか? もしもこれに即答できるというのであれば、貴方はもはや最強といってよいでしょう。千人どころか一万人で束になってかかっていこうとしたところで、誰ひとりとして近づくことすらできないハズです。

なんでそうなるのか、ですって? ありとあらゆる「こだわり」から自由であることこそが、本物の智慧だからですよ。逆に、わずかでも「こだわり」が残っているとしたならば、それはニセモノなのです。

ほら、あのダルマ大師と慧可の有名な問答があるじゃないですか。「心を持ってきたならば安らぎを与えてやるよ。」「それが・・・ どこを探しても見つからないのです。」、っていうヤツ。実は、今も昔も変わらず、このポイントこそが修行者の命なんですよ。それ以外の「ああだ」とか「こうだ」とかなど、全てどうでもよいことです。

まだわかりませんか?

「身体についた汚れでもなければ、身体そのものでもないということであれば、いったい風呂で何を洗うのか?」ということが理解できたなら、「仏」などという言葉すらももはや余計なものなのだということがわかるハズ。あなたを含めた今どきの人は皆、普通に風呂に入っているハズですが、なんでまた、バドラパーラのように悟ることができないんでしょうね? なにか余程深刻な汚れが皮膚や骨にこびりついてしまっているんでしょうね、きっと。

ところで、「ありとあらゆる「こだわり」から自由である」ということであれば、洗うだとか洗わないだとか、触れるだとか「水というものの本当のハタラキ」とかだって、別にどうだっていいということになるんじゃないですか? ここでピンとくることができるなら、それこそが「触れるという不思議な能力によって、ようやく本物の修行者となることができた」ってヤツなんですよ。

なんてこった! まだわからないですって? (笑)

―――――つづく