風呂に入った十六人 2/2話(出典:碧巌録第七十八則「十六開士入浴」)

さっきから言っている「触れる」というのは、「対象物にくっつくと触って、それから離れれば触っていなくなる」、というようなことではないのです。

玄沙和尚は、かつて坂道で蹴つまずいて足の指をぶつけ、全身に激痛が走った時に悟りを得たそうです。そういえば、徳山和尚も、悟らせるために棒で殴るのを得意技としていましたね。こういったのもみな、「触れて悟る」ということになるのではありませんか?

まぁしかし、「触れる」といった時に自分の身体のことばかり考えているようでは、まるっきり見込みなしですよ。本当は、何も風呂になど入らなくたって、きれいサッパリとなれるのですから。

そのことに気づけたならば、毛先に宝石で飾り立てた塔を建立したり、ゴミ溜めの中で大法輪を転じたりすることなどぐらい、楽勝でできるようになれるハズ。

話をバドラパーラに戻しますが、彼が叫んだ時、一緒に風呂に入っていた残りの十五人も、その場で同時に悟りを得たそうです。昔の人は凄かったですよね。 いろんな意味で。(笑)

でも、真実を悟るのに大勢の人手など決していらず、ひとりで充分なのです。どうやら今どきの修行者たちはみな、坐禅しているように見えたところで、実際は脚を伸ばして寝ているのと一緒のようですね。なにしろ寝っぱなしなのだから、「悟った!」などと言ってみたところで、みんなそいつの夢の中のできごとに過ぎやしません。

雪竇(せっちょう)和尚は、「妙ちくりんなアロマ風呂から出てきやがったなら、顔面にツバを吐きかけてやるからな!」、と息巻いていましたっけ。

本物の修行者というのは、無用の議論が始まるやいなや、サッと席を蹴ってゆくものです。

「風呂に入ったら悟りを得た!」というのはどういうことか、なんて、そういう人にとっては「夢のなかで夢の話をしてやがる」ようなものです。

とはいっても、「顔面にツバを吐きかける」なんてのもまた、「土の上に泥を塗りつけるようなもんだ」と私は思うんですけどね。

<風呂に入った十六人 完>