維摩のオッサンと「絶対の境地」 1/5話(出典:碧巌録第八十二則「維摩不二法門」)

さて皆さん、あるものごとを「よし」とするにあたって、その「よし」という判断を「よし」とするのは何によるのでしょうか?

はたまたその「よし」という判断を「よし」とすることを「よし」とするものは?

はたまたその「よし」という判断を「よし」とすることを「よし」とするものを「よし」と(以下略)

あるいは、あるものごとを「ダメ」とするにあたって、その「ダメ」という判断を「ダメ」とする(以下略)

・・・つまるところ、そんなものはわからない、というか存在しないと考えた方がスッキリするということを知るべきです。

「よし」も「ダメ」のどちらも成り立たず、「よし」とか「ダメ」とかの区別をすることすらも忘れた時、はじめてキレイサッパリ、スッキリした気持ちになれるというわけですね。

それはまぁよいとして、ここでひとつナゾナゾをだしましょう。

あなたの顔の「前にあるもの」と「後ろにあるもの」、それはいったい何でしょうか?

え? わけがわからない?

しょうがないですねぇ、それでは特別にヒントを出しましょう。

ある修行僧は、かつてこう答えました。

「顔の前」には「立派な門」が、「顔の後ろ」には「応接間とリビング」があるのです!」

さて、コイツはいったい「わかっている」のか「わかっていない」のか、どちらだと思いますか?

それがわかるようであれば、まぁ、あなたは合格です。

かつて維摩のオッサンは、文殊菩薩をつかまえてこう質問しました。

「オマエさんがたどりついた「絶対」の境地とはどのようなものか言ってみろ!」

それに対して、文殊菩薩はこう答えたそうです。

「えーとですね。
わたくしが思いますに「絶対」の境地とは、
「言葉にできない」し「説明できない」ものであり、
つまり「問答の対象とすることができない」ものなのではないかと。
ところで維摩さん、あなたのご見解はいかがですか?」

さて、かつて私の師匠の雪竇和尚は、この話を皆に話し、さらにこう言いました。

「さぁ、その時維摩はなんと答えたか? 言ってみろ!
・・・はっはっは!まるっきり「お見通し」ってわけだ。」

―――――つづく

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