「般若心経の秘密」 第2話(出典:般若心経秘鍵)

世間では「仏の教え」というとどこか遠く雲の上のことのように考えているようだが、オレに言わせれば、これがそもそも大マチガイだ。それは生まれつき全ての人の心の中に備わっているハズのものなのだ。なんの遠いことがあるものか!

したり顔で「身を捨てて悟りを得る」などというヤツらがいるが、悟る主体はあくまでも物理的個人である。身体を捨ててしまったら悟りの求めようがなくなってしまうという理屈がわからんというのだから困ったものだ。

迷いも悟りも全て自分の中にある。だからこそ、「本気を出す」ことさえできれば、その瞬間から「悟り」に到達することが可能となる。「明るい」とか「暗い」とかも極めて個人的なものだ。従って、「信じて努力する」ことさえできれば悟りを得ることは決して難しくない。むしろ一瞬で悟ることだって可能だ。

だというのに、なんと気の毒なことだろうか。世間の連中ときたらそのことを知ろうともしないで一生を過ごしてしまう・・・ これでは一生寝たきりなのと何ら変わりがないではないか!

真実の世界を知ることなく迷いの世界に酔いしれているヤツらを見ると、気の毒を通り超して痛々しくて仕方がない。

挙句の果てに、「酔っぱらい」はシラフの人を笑いものにし、「寝坊助」はめざめている人のことを寝言でバカにしている・・・ 全くなんということだ!

この病んだ状態から脱するためには、名医の処方する薬が必要だ。それ以外にお天道様に顔向けする方法はない。

とはいっても、人の視力に良し悪しがあるように、悟るスピードには個人差がある。才能もマチマチだから性格ややる気だって決して一律ではない。だからひとくちに「仏の教え」といってもやり方はひとつではなく、それが様々な宗派となって今に伝わっているのだ。

まあ、様々なやり方といってもあくまでも便宜上の違いに過ぎず、それぞれの症状に応じて適した処方をするというだけのことで、病気を直すという目的はひとつなんだがな。

いきなり難しいことを言っても通じない相手に対しては、相手の理解度に応じて色々な角度から教え導くことも大事なのである。

―――――つづく