あいさつやめますか。野性、捨てますか。

11月4日付の神戸新聞夕刊での投書が、現代日本のご近所づきあい再考を迫る話題となっている。

「知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、マンション内ではあいさつをしないように決めてください」。(注:住民総会での、小学生の親からの提案)

……年配の方から「あいさつをしてもあいさつが返ってこないので気分が悪かった。お互いにやめましょう」と、意見が一致してしまいました。

TwitterやFacebookでは、この投書をめぐって賛否両論が飛び交った。ひと昔前ならば、挨拶するというのはコミュニティで暮らす「礼儀」のようなもので、僕が小さい頃は元気はつらつと挨拶をすると「あら、よく出来ましたね。おりこうさんね」と、近所の大人が褒めてくれたものだ。しかし、不特定多数の人間が行き交うことの多い都市部では、いちいち挨拶をしていたら“挨拶疲れ”を起こすだろう。

知らない誰か、あるいは知り合いとすれ違ったときに、声をかけるかどうか。その判断と行動は、習慣というよりもむしろ本能(生物としての勘)に依拠すると言ったほうが、より適切だと僕は思う。「本能」というと説明不可能な人間の性向のようなものだと誤解されそうなので、「相手と相対した瞬間にある程度の全体像を判断する力」と言い換えてもよい。その判断の材料を得るために、声を掛け合うのは、むしろ必要だとさえ思う。

ほかの動物たちは、ウーッ、オーッと唸りながら間合いをはかり、何億年ものあいだ上手くやってきた。その勘というか判断力が発動する部分を、「あいさつしましょう」「あいさつやめましょう」という決まりやルールで縛るというのは、野性を退化させてしまうようで、どうもやりきれない。ちなみに、「あいさつ推進」という語句で検索すれば、じつは現代日本社会があいさつをルール化するのにいかに努力してきたかが分かる。

もちろん、子どもでも大人でも、いたずら目的で声をかけられトラブルに巻き込まれないようにするのは大切なこと。だからこそ、怪しい声を聞きわけ、危険な様子を察知する勘を養う必要がある。イソップ、グリム、ペローらの童話にも、例えば優しくあいさつをしてくるオオカミが出てくる。だからと言って、ヨーロッパは「あいさつ無しでいこう」という社会にはなっていない。大人になるまでに、大小雑多な人間模様を観察・経験して、個別に判断力を鍛えているからだ。

コール&レスポンスは、人間の社会性だけでなく野性をも鍛える。だからこそ、日々これが大切だと思っている。

コール&レスポンス!