棒の彼岸 古くて新しいヴァーチャルの世界

現代劇に(あまり)向かない造形

少し前のことになりますが、「死者の書」という映画を見ました。(※)川本喜八郎監督による人形アニメーションです。

川本喜八郎さんと言えば、「人形劇三国志」。私も子供の頃に見てすっかりファンになりました。
人形劇ですからもちろん演じるのは人形です。手足が動くようになっていて、人形の手足の先など随所随所についた棒を動かして人間が操作しているのです。目が閉じたり瞳が左右にキョロキョロ動いたりはしますが、基本的にはずっと同じ顔をしています。それなのに、顔をどの角度から映すか、どんな仕草や動きをつけるか、ということで驚くほどに表情豊かに見える、それは見事な人形劇なのです。

私は取り立てて人形が好きなわけではないのですが、それでも、ちゃんと関節が動いて、動かしたり服を着せ替えたりできて遊べるようになった、きれいな人形があったら是非欲しくなります。それも普通の人間型ではなく「千手観音」「十一面観音」や「阿修羅」の人形が欲しいなあ。どうしてないんでしょう。やはり罰当たりだからか。(※※)

話がそれてしまいました。
「人形劇三国志」に戻りますが、あの番組では、操作する人間は「いないことになっている」ものの、先述の「棒」が見えていることや、人形の動きに、その体の大きさにはやや見合わない緩急がついていたり、ということから、背後にいる「人」の存在が感じられたものです。だからといって興をそがれることは決してなく、物語に夢中になって見えなくなることもあれば、見えているときもむしろ人形を操作するものと人形との一体感に感嘆させられる存在でした。本当は人形が自分で動いていて、そのことを隠すための「棒」に見えることすらありました。
そして新作の「死者の書」です。これももちろん人形劇なのですが、何とコマ撮りアニメーション(人形を少しずつ動かして一コマずつ撮影するもの)だったのです。つまり、動かしている「人間」はいるものの、撮影した瞬間に画面の背後にいるわけではなく、当然「棒」もありません。
動きがなめらかで非常に美しかったですが、「あの『棒』がいいのになあ」とどこかで感じてしまったことも否めません。もっとも、そんなことを思うのは私だけかもしれませんし、総じて美しい作品だったことに変わりはありませんが。

この人形劇の「棒」のように、「あるけれどないことになっている」ものというのは非常に興味深い存在です。
「棒」に関して言えば、背後にいるけれどもいないことになっている「人間」の存在を暗示するわけですが、「いないことになっている」だけに、それが「人間」であると想像せよ、と強要するものではありません。いわば「棒」から何を読み取っても良いという自由があるわけです。というのは後で考えた屁理屈で、自由があるもないも、あんな「棒」がそこにあれば、否応もなく何かを思わせますし、それが時と場合によって、また人によってそれぞれ違った「何か」になるのは道理です。

話は変わりますが、先日、外出するため に玄関から出ると、玄関脇に置いてあった発泡スチロールの箱の上に、柿の葉が一枚、置いてありました。近くに柿の木があるとはいえ、一応屋根のついた場所なので、普段その場所に落ち葉が積もったりはしませんから、これはちょっとした異常事態です。しかも、箱の真ん中にきれいに、作為を感じさせるほどきれいに一枚、置いてあるのです。
葉っぱといえばタヌキが化けるために頭の上に乗せたりするもの。時にはお金に変身させて買い物をしたりするもの。これはタヌキの暗号メッセージではないか?と、私はとっさに考えました。いえ、こんなことをとっさに考えるのが変なことは承知しているのですが、そう考えてしまうほどにその葉っぱの佇まいが「見事」だったのです。
しかし、何の暗号なのかはさっぱりわからないので、取りあえず同じくらいの大きさの柿の葉をもう一枚拾ってきて、箱の中央に二枚が並ぶように配置してみました。そしてわけもなく愉快な気分で外出しつつ、歩いているうちに葉っぱのことなどすっかり忘れていたのですが、帰宅してみてびっくりしました。
葉っぱがまた一枚になっていたのです。
おおかた、風で飛んだか何かなのでしょうが、まるでタヌキとのコミュニケーションが成立したかのようです。
どんなコミュニケーションかって、
「1」
「いや2では?」
「断固1!」
みたいなコミュニケーションです。値引き交渉だか賃上げ交渉だかにも思えるし、もっと哲学的な問答のようでもある。私にとっては、ということですが。

以上、「ないことになっている」人形の棒と、葉っぱから派生した「ありもしない」妄想の話ですが、何を言いたかったといいますと、最近すっかり市民権を得た「ヴァーチャル」という言葉、あの言葉から私がまず連想するのはこういった、「棒」や「葉っぱ」みたいなものだなあということなのです。
「ヴァーチャルリアリティ(仮想現実)」と、何故か「リアリティ」とセットにして使われる「ヴァーチャル」。  主にゲームなどコンピューターシミュレーションによって再生された世界のことを指し、「こんなに本物そっくりに」「この技術で世界が変わる」といった文脈でもてはやされつつも、「現実世界のニセモノ」「生身のあたたかみに欠ける」などとも評されがちで、それらのせいで人間から現実の重みを見失わせるとまで言われることもあります。何と言うか、その対立構造の単純さにそろそろうんざりするというものです。
しかし本来「ヴァーチャル」とは「仮想」ですから、「現実」とは関係がありそうで実際にはないもので、本物とか偽物とかいう対立は無意味です。現実に寄り添うように近く、しかし全然違うもの、を指して言っても差し支えなさそうに思えます。例えば現実世界の物質である「棒」や「葉っぱ」から連想される不思議な世界のようなものを。
現実世界や生身の人間関係も、それはそれ、しかしどちらかというと「棒」や「葉っぱ」をスイッチとして湧いてくる何かの方が、自分にとって大切であったり本質的であったりする、ということはあります。外側から客観的にたどることの出来ない個人の歴史が、棒や葉っぱに書き綴られているのです。コンピューターなど、そんな「ヴァーチャル」世界の新参者に過ぎないわけですが、コンピューターの出現とともに「ヴァーチャル」が発生したと考え、それを現実に対する脅威と感じる人もいるということで、世の中には思いもよらない断絶があると感じ入らずにはいられません。
だんだんもっともらしい結論に落ち着きそうな気配にそわそわしてきました。もっともらしいことや正しいことを臆面もなく言う、というのも冗談として面白いと以前は思っていたのですが、年のせいか近頃ちっとも面白くないばかりか腹が立ってウイルスでも送りつけたくなります。

別に現実と仮想の対立に一言申したいわけではありません。

実は私が気になるのは、もし仮に「現実>仮想世界」という価値観にのっとって見た場合、人形劇の「棒」はあった方が良いのかない方が良いのか、ということなのです。「人形」=「生きた人間を模したヴァーチャル人間」だとすると、人間の手足に棒などついていないのだから、棒はない方が望ましいのか、それとも、それが人間によって操作された人形であるという現実を隠さないために棒がある方がいいのか(紙幣や有価証券の画像「見本」と入れるようなものか?)、そもそも人形なんてダメだとかいうのか、どの答えもありそうでちょっと面白くはないでしょうか。ちなみにお察しの通り、ARなど導入するまでもなく現実に足がついていた試しのない私としては、人形劇の人形は棒がついているところが人間にはないチャームポイントだと思います。


本記事は、2006年にホームページ旧「雨梟庵」に掲載した文章「雨梟庵雑記」に加筆修正のうえ再録したものです。

※こちらも2006年当時にとって「少し前」のお話です。

※※千手観音や阿修羅の着せ替え人形やフィギュアなども、2006年の執筆当時には「ない」と思われましたが、今は「探せばある」気がしてなりません。当時も現在も実際にきちんと調査したわけではないのですが、そのように世の中が変化した気がするという自分の体感が面白いです。激動の罪と罰!

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