異国喫茶

「不謹慎な笑い」というものがあります。
大雑把に言えば、笑うべき状況でない時に笑ったり、笑いの対象にすべきでないことを笑ったりすることです。
不謹慎「だからこそ」おもしろいということもあるかもしれません。
タブー・禁忌への挑戦にこそ笑いの本質があり、破られるタブーが深刻であるほど面白さの質が高いという意見さえ世の中にはあるようです。もちろん逆に、人畜無害なことならば笑えるが不謹慎なものには笑えないという人もいます。
が、 「不謹慎だろうとなかろうと面白い」ことの方がより多いと私は思うのですが、どうでしょうか。
笑いの種というのは、おもしろおかしい場所にも真面目な場所にも平等に、ランダムにばらまかれているような気がします。

さて。
突然ですが 、「ボケロージン」即ち「呆け老人」という言葉は、どことなくロシア語みたいではありませんか。
ある人に言ったら「ドビンシキ」(土瓶敷き)もかなりロシア語だと言われました。
果たして「ボケロージン!ドビンシキー!!」と音に発すると、だいぶロシア語を話しているような気分になります。

また別の友人に、だいぶ前に聞いた話なのですが、 ドイツで「カローシ」(過労死)という日本語が大流行したことがあるそうです。
「働きすぎて死ぬこと」を意味する単語であることを知る人は極めて少なく、
また知ったとしてもあまり気にしないらしいです。
ただ単に、「響きがよい」から大流行し、
ベルリンだけでも数軒、「カフェ・カローシ」という名のカフェが登場したとか。
さすが数々の大音楽家を輩出した文化を持つだけあり、ドイツの人々は「音」や「響き」にこだわりがあるのだなあ、しかも時として「意味」以上に。
と、変なことをしきりに感心してしまったのですが、「カローシ!カローシ!」と連呼して大はしゃぎのドイツの若者たち、「過労死」に他人事でない痛みを感じる人から見れば「不謹慎」以外の何ものでもないでしょう。
そしてピロシキ食べながら「ボケロージン!」なんぞと言っている輩もまた同罪なのは言うまでもありません。

ここで大真面目な議論をするとしたら、
「 他人が不快感や痛みを感じる可能性のあることを軽々しく笑うのはよくない」という意見やら、「いや、たとえどんなタブーにも触れないかに見える笑いであっても、それで傷つく人もいるはずだ。バナナの皮ですべって転ぶ人を笑う時に、バナナの皮で死んだ人だっているかもしれないと考えているだろうか?考えていない人に、『不謹慎な笑い』をどうこういう資格があるのか?」
という意見やら、色々出てくることでしょう。

しかし私が「ボケロージン!」の不謹慎さを思ったとき、強く感じたのはそういうことではありません。
因みに、「老人性認知症」は私にとって決して他人事とは言えない身近なトピックでありますが、そのことともほぼ関係がありません。

私が思わず連想したのは、本を枕にする人のことです。
読もうと思って買ったものの積んである本。
ある日昼寝の枕に使ってみたら、高さといい硬さといいぴったりの理想的な枕である。
そんな経緯で「枕」にされている難しそうな本、というのは、それこそバナナの皮ではありませんが、古典的なマンガ的光景と言えましょう。

世の中にはきっと、予想以上にたくさんあるのです、幸か不幸か、当初の目的とは全く別のところで思いもよらぬ評価を受けてしまうということが。

観賞用植物だったトマトを食べてみたら美味しかったため今日のように広く食材として普及した。

パイ皿を投げて遊んだのがフリスビーのはじまりである。

モーパッサンに心酔し、心理小説を目指していたモーリス・ルブランがたまたま書いた「紳士怪盗アルセーヌ・ルパン」の小説が大評判を取ってシリーズ化、はるか海を越えた東洋の国で三世までが大人気。

ぱっと思いつくだけでもかなりの数とバリエーションがあります。
ここに挙げた例は、「思わぬ評価」界での、いわばスターのような存在ですが、枕にされた本、なぜか響きがよい「カローシ(過労死)」など、人の目には見えない無名の星々も夜空のどこかには輝いているのです。そしてそのひとつが、なぜかロシア語みたいな日本語、「ボケロージン」であり、「ドビンシキ」であります。
不謹慎と言われかねない悲劇を負った「ボケロージン」と、かなり自由な「ドビンシキ」。
だいぶ身の上が違うように見えますが、面白さの質はほぼ同じではないでしょうか。

要するに私はどうも「禁忌あってこその笑い」派とは相容れないようで、そうした意見が「自由な身の上よりも、重い十字架を背負っている方が偉い」というのと同様のものに感じられます。なにか偉業を成し遂げた人をどう社会的に評価するかという話ならばともかく、「面白い」と思って笑う瞬発的な感覚は、どっちが偉いかとは別の話ではないかと思うわけです。

「ボケロージン」と「ドビンシキ」の対比には、笑いの種はやはり、どこにも平等に、ランダムにばらまかれていのだという思いを強くするばかりです。
さて、平等でランダムということは一体、悲劇なのか喜劇なのか。
私はやはり、そのこと自体がひどくおかしく愉快、つまりは喜劇だと思うのですが。

※2005年にホームページ旧「雨梟庵」に掲載した文章「雨梟庵雑記」に加筆修正のうえ再録したものです。

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