大人は教えてあげない

近頃、「脳の年齢を判定する」とか、「脳を鍛える」とかいう言葉をよく聞きます。そういうゲームも発売されているようで、よほど「脳」が流行している模様です。
「脳年齢」の判定基準の詳細はよくわかりませんが、私の知り得た範囲では「人間の脳の活性度がピークに達する年齢は20歳前後である」「その後、時間を追って脳は衰える」と仮定して、クイズやパズルの正解率や解答速度が最も高くて20歳、以下、その成果が下がるごとに脳年齢が上がる、とする判定法のようです。
きっと、脳の研究やら多くの人の脳の統計から見て、妥当な方法なのでしょうが、となると自然と気になることが出てきます。まず、「平均的な20歳の脳の活性度」を遙かに超える高機能な脳の持ち主の脳年齢は、判定不能ではないか、ということです。そしてもう一つ、反対に著しく不活性な脳の場合、どんどん「高年齢」と判定されるのでしょうが、一体それはどこを限度にしているのだろう、ということです。
ものすごく働いている脳は、どこまで行っても「20歳」。一方、脳の働きが悪くなればなるほど脳年齢は「100歳」「120歳」「200歳」……などと上がっていくのだとすると、何だか後者の方が面白い思考をする人物のように思えてしまうところに、妙な趣があります。 また、人間の脳が20歳まで成長を続け、後は衰えるという、山型のカーブを描くものだとすると、20歳以上の「ある年齢」の脳と同じくらいの能力を持つ年齢が20歳以下にももう一箇所あるという理屈にはならないでしょうか。例えば「15歳の脳」と「40歳の脳」は同じくらい、といったふうに。「150歳の脳」などと判定された場合、「仙人のように深みがある」と解釈する、もしくは「5歳くらいの、昇り調子のものすごく若い脳と同じ」と考える、という二通りの、かなり愉快なポジティブシンキングができそうです。

さて、「脳」と「年齢」と言えば、他にも以前から気になって仕方のないことがあります。よく、動物の知能の程度を表す時に「人間で言えば2歳児くらいの知能」などと言います。人間を超える知能を持たない(と思われる)動物に関してよく使われる表現です。
しかし、人間よりも高い知能の持ち主に関しては、一体どう表現したら良いのでしょうか?そもそもそんな生物がいなければ不都合は生じないわけですが、いない保証など絶無ですし、だいたいそのような「ちょっとした拡張」もできない非対称性があっては、どうも言葉として中途半端で面白みに欠けます。よって、年齢を基準にして知能の高い生物を表現する方法を考えてみようと思います。
人間の倍以上の知能を持つ生物Xがいたとします。この生物Xの寿命、あるいは脳がピークに達するまでの年数が人間と大して変わらない場合、わりと話は簡単です。例えばXの寿命が300歳で脳は20歳まで成長する場合や、寿命は30歳だが脳が生涯成長する場合です。こういったケースであれば、主語を逆転させて、「人間の知能は、Xで言えば10歳程度にあたる」などと言えばわかりやすいわけです。
が、Xの寿命、脳のピーク年齢ともに人間よりも大幅に長い・または短い場合、もっと難しいことになりそうです。Xの寿命が500歳で、脳が100歳まで成長する場合、例えば「人間の知能はXで言えば50歳程度にあたる」などと言うと、Xの生態によほど詳しければ良いのですが、人間の年齢感覚を適応してしまっては、一体どちらの知能が高いのかわからなくなります。さらに、Xの寿命がたった0.1秒、などという場合はますます困難を極めます。「人間の知能はXでいうと0.0001秒程度にあたる」などと言われたら、もはや年齢の話であると気づくことすら難しいでしょう。こうなったら、人間の脳が20歳を超えても、同じスピードで永遠に成長し続けると仮定して、「Xは人間で言うと1500歳くらいの知能」などと言った方がまだわかりやすいかもしれません。とすると、年齢の高さが、冒頭で述べた「脳年齢判定」の基準とはまったく逆の意味を持つことになります。
結局のところ「年齢」を持ち出すということは、主に自分の「過去」や「成長過程」を引き合いにしてそれを手がかりに何かを理解しようという方便、つまり対象を自分に近い位置に引き寄せて理解する手法の一つであり、まったく未知のものや差異の大きすぎる相手に通用しないのは当然です。
そしてどのみち 未来はまったく未知の世界ですから、話を人間の「脳年齢」に戻せば、20歳以上の人は、「脳を20歳に若返らせよう」と考えるより、「人間の常識を覆し20歳を超えても成長しよう」または、先ほどの寿命の短い生物Xの時の表現を採用して、「いわゆる『人間で言えば100歳にあたる』ほどの脳になってやろう」とでも考えた方が面白そうに思います。

年齢や歳月にまつわる身近な不思議はまだまだあります。
大人が子供を見て「子供はいいなあ」と言ったり、若者を見て「若いって良いなあ」と言ったりするのはよく見る光景です。が、言っている本人は本当に心からそう思っているのでしょうか。あれはどうも、「原始人をうらやむ現代の都会人」くらいの、現実味のないものに思えてなりません。単に責任ある仕事をこなすのが面倒だとか、ちょっと肌の水分量や筋肉の量が減ってきたとか、それくらいのことで子供や若者を羨むばかりか、大人になるとはひどい苦行なのかと彼らを不安に陥れかねない発言をして良いものでしょうか。それとも、私が知らされていないだけで、大人同士の「対・子供」の無言協定でもあるのでしょうか。あれは正に地球環境の悪化だとか地下資源の枯渇だとかマンモスが見てみたいだとかの理由で旧石器時代に憧れるようなものです。バック・トゥー・ザ・ストーンエイジ!そりゃあ自然は豊かすぎるほどでしょうし、地下資源はまだ採ってないのだから豊富、マンモスもいるでしょう。でも、狩りが下手だと即、餓死!夜は猛獣の脅威に怯えて過ごす!電気も活字もないので夜の読書もできやしない!いや、ある意味面白いでしょうし、経験してみないとわからない素晴らしさもあるには違いありません。短期の時間旅行くらいならばしてみたいと思わなくもないですが、どうせならば人類誕生以前、シルル紀や白亜紀などの方が面白そうですし、いずれにせよ永住となったら相当慎重に考えます。考えた結果、結構ですとご辞退申し上げる可能性が高そうです。信じられないほど素晴らしい子供時代を送り、且つ現在不幸な人は本当に「子供に戻りたい」と思うものなのかもしれませんが、子供時代ってそんなに面白いものでしょうか。少なくとも私は、ちっとも戻りたくありません。
「若いって良いなあ」もまた、同様です。私自身がまだ老年には達していないからかもしれませんが、楽しかったことは多々あれど、もっと若い時に戻りたいとは思いません。本当につまらないことに費してしまった時間や、病気で不可逆に失われた健康などは惜しいと思いますが、それは若さへの愛惜とはまた別物に思うのです。観察していると、周りの人とてそれは同じ気がしてならないのに、しばしば若者を羨んでみたりするのは、あれは一体何なのでしょう。現在本当に不幸な人ならば、むしろそういう軽口は叩かず、「年長者を敬え」と威張ってみたり、屈折した負け惜しみや、もっと暗い諦念の言葉を口にするように思われます。放っておけば手に入るからといって「時間」のありがたみを忘れ、ただ戯れに時の逆行を望むという「ないものねだり」のパフォーマンスだとしたら、子供や若者にとっては迷惑な話です。だってマンモスは襲ってくるかもしれないし、それどころはないのですから。
もっとも、たとえ「経験を経た目から見て戻りたくはない時代」だとしても、それはそれで一度きりの貴重な子供時代、青春時代です。年少者たちが貴重な時期を生き急いで空費しないための大人の思いやりから、あのように「いいなあ」と言っているのかもしれません。それとも「面倒くさい」「もったいない」などの、ただの意地悪に近い動機から、歳月のもたらす甘露の味を教えてあげないだけなのでしょうか。
かく言う私も、大人になって、年を取って、何が面白く楽しいかなんて、自分より年下の人たちに説いて回ろうなんぞとは思いません。理由があってそうするというより、言ったところで理解できないような「何か」を得ることが年を経ることであるから不可能、と言うべきかもしれません。そしてやはり、若干の意地悪もあるかと思います。要は面倒ということです。そのかわり、自分より年長の人々の「意地悪」にも寛容になることにしました。それこそ若かりし頃は、例えば健康そうな年長者に「若い人は元気いっぱいでいいねえ、歳を取るとほら目もよく見えないし……」などと言われると、当時からさして健康でも元気いっぱいでもなかった私としては、「その年まで目以外に健康上の問題がないことの自慢か?」としばしばイラっとしたものですが、今はもうそんなことは思いません。いいですよいいですよその意地悪も大人の特権ですから。そう、大人は教えてあげないのです。

私も120歳くらいまで生きられたら「還暦まだ一度目?いいなあ若くて」と周囲の若者(60歳)を困惑させてみたいです。


※2005年にホームページ旧「雨梟庵」に掲載した文章「雨梟庵雑記」に加筆修正のうえ再録したものです。「脳」ブームはブームに終わらず定番ジャンルになった感があることに感慨が深いです。

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