太陽を待ちながら(絵本「たいようまつり」はどう生まれたか)

2009年6月、本郷のヴァリエテ本六で、西村敏雄さんと「たいようまつり絵本原画展」を開催しました。その際会場に掲示した文章です。


太陽を待ちながら

なぜ太陽が八つも出てくるのかと問われてもぼくには答えられない。出てくるから出てくるのだとしか言いようがない。作家は作品世界を神のごとく自在にあやつれると思っている人もいるがそれは違う。作家にはわずかな自由しか与えられていないのだ。

絵本「たいようまつり」西村敏雄・風木一人

『たいようまつり』文・風木一人 絵・西村敏雄 イーストプレス刊

初めに浮かんだのは「たいようまつり」という言葉だった。ひらめきは勝手にやってくるものだからそこに作家の自由はない。採用するかどうかの自由があるだけだ。まだストーリーの片鱗もない段階でも、言葉からあふれだす強い陽性のパワーに、これが絵本になることはすぐわかった。

次に「たいようまつり」という言葉がイメージを呼んできた。それは人々が太陽神を祀るお祭りではなく、太陽自身が空でお祭りをするイメージだった。この時点で太陽は自然と複数になった。いくら偉大な太陽といえども一人でお祭りでは盛り上がれないだろう。

あとは自動筆記に近い状態。勝手につるつると出てくる。八つの太陽が次々登場し、うっかり者の月も登場し、ちょっと邪魔者の雲たちもやってくるがすぐに去り、楽しい祭りのあと太陽たちはみな帰っていく。作為的な感じはなく、こうすれば面白いだろうなどとも考えていない。いろいろ浮かんだ展開から選びぬいたわけではなく、これしか浮かばなかった。

今回に限らずぼくの創作はこういうケースが多い。ひらめき自体に起動力があり、あとはその起動力で自然に展開していく。意識的に操作していないから作ったというより降りてきたような感覚がある。自分とは別個に存在していたお話をたまたま授かったような。

しかし、この絵本を読んで「月とは一緒に遊べるけれど雲とはダメなんですね」と言った人がいた。虚をつかれた感じがした。ぼくにはそれが当り前で他の可能性など考えたこともなかったからだ。太陽たちには、月も雲も受け入れる、あるいは月も雲も拒絶する選択肢もあったのだろうか?

異質なものとも仲良くできるのは素晴らしいことだ。しかし太陽と雨雲のように仲良くできない相手もいる。それはそれで悪いことではなく、太陽は太陽で、雲は雲で楽しくやればいい――意識して考えたわけでなくても、ぼくにはそういう感覚があり、それゆえこの展開が自然に出てきたのだろう。

何を自然と感じるかは人によって違う。だから自然であろうとすると自動的に自分が出る。作為がなければないほど正直に出る。
蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘る。作家が自由でないとは自分らしい作品しか作れないということなのだ。

絵本「たいようまつり」風木一人・西村敏雄

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