絵本作家になったころ2「10社でボツになる」

『ながいながいへびのはなし』が刊行されたのは2001年12月。するとたぶん、ぼくが持ち込みを始めたのは1998年4月ごろだろう。

そのころの絵本出版社はたいてい気持ちよく持ち込みを受けつけてくれた。どこの馬の骨とも知れぬ相手でも原稿があるなら見てやろうという姿勢があった(今は残念ながら違う。どう違うかはいずれ書く予定)。

見てもらうのは簡単だったが、採用になるかは別問題で、言うまでもなくこちらこそ真に重要なことである。
ぼくは『へび』の出来に自信があったのですぐ採用になるのではと甘い期待を抱いていたが、とんでもない間違いだった。じつに10社で断られることになる。

どうしてそうだったのか、今考えても確かな理由はわからない。その後小峰書店から刊行された『へび』は15年経った今も現役で、ぼくの絵本の中では明らかに売れている方だし、フランス・韓国・中国・台湾でも翻訳出版されている。高畠純さんの絵の魅力が大きいのは言うまでもないが、ぼくの原稿の段階でもプロの編集者なら価値を見抜けてよかったはずだと正直思う。

「ながいながいへびのはなし」風木一人・作 高畠純・絵 フランス版 「ながいながいへびのはなし」風木一人・作 高畠純・絵 韓国版

「ながいながいへびのはなし」風木一人・作 高畠純・絵 中国本土版 「ながいながいへびのはなし」風木一人・作 高畠純・絵 台湾版
(左上からフランス版、韓国版、中国本土版、台湾版)

じつは10社断られたといっても、箸にも棒にもかからないという感じではなかった。3社からは書き直しの提案があった。しかしそれがいずれも「画面を上下に分けるのはやめる」という内容を含んでいたのだ。
これもやや不思議である。いま完成した本を読んでくれた人はほぼすべて(編集者も含め)、上下に分けたのがいいと言ってくれる。それなのにこのときは「やめよう」と言われた。

作家には譲ってもいいところと譲ってはいけないところがある。ぼくにとって『ながいながいへびのはなし』における上下段のアイデアは完全に後者だった。前回書いたように、これがあったから書けた作品であり、絵本として一番面白いポイントなのだ。変えれば出版のチャンスがあるとしても変えるわけにはいかなかった。

※「絵本作家の仕事」は毎週木曜更新予定です。


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