絵本は副産物「ぼくはなぜ絵本を作るのか」

こんなことを言うと怒られるかもしれないが、ぼくは絵本は副産物だと思っている。つまり何かを作っていたらおまけで生まれてくるもの。
この場合の「何か」とは何か? 自分である。
作る前と後で自分が変わっているようでなければ創作する意味なんてないだろう。

前回触れた『とんでいく』を例に引く。

右からも左からも読める絵本を作る、が最初の課題で、3ヶ月かけてひねり出したのが鳥のシルエットだった。

絵本「とんでいく」作・風木一人 絵・岡崎立

そのときは気づいていなかったのだが、制作が終盤に入るころふと気がついた。このシルエットには子どものころ出会っている。ひとりで考えついたのではなく、昔見たものを思い出したのだ、と。

小学生のとき学研の「科学」「学習」という雑誌を講読していた。たぶん「学習」の方に、このシルエットを使った実験の記事があった。ニコ・ティンバーゲンとコンラート・ローレンツという動物行動学者(1973年ノーベル医学生理学賞受賞)が灰色ガンの雛に対して行った実験だ。
正にこのシルエットの形をした板を棒の先につけ、巣の上で左右に動かす。左に動かすと雛たちは無反応だが、右に動かすととたんに騒ぎだす。
灰色ガンの雛が、首の短い鳥(タカやワシのような)は恐ろしい存在であると本能的に知っていることを確かめた実験なのだと思う。

もちろん今書いた詳細はネットで調べて得た知識で、小学生のときからずっと記憶していたわけではない。完全に忘れていた。
子どものころ見ている、それはたぶん「学習」の記事だ――それだけの記憶から様々なキーワードを引っぱり出し、検索した。出てきた結果によりさらに甦ってくる記憶がたくさんあった。その多くは別に絵本には生かされていないが、ぼくという人間にとっては意味深いものだった。

左右から読める絵本を作ろうとしていなければこのような記憶の発掘はなかった。死ぬまで思い出さなかった可能性も充分ある。

次に、単純すぎる展開をストーリー化するのが課題となった。
それまで「ストーリーとは何か」を突き詰めて考えたことはなかった。何かをドラマティックだと感じたり、逆に何のドラマもないと感じたりすることはよくあっても、その違いを深く追及する意識がなかった。
前回書いたとおり、3ヶ月考えてようやく気がついた。登場人物の内面が見え、そこに感情移入できるとき、読者はドラマを感じるのだ。

絵本制作上の課題となり、集中して考えるしかなくなったとき、初めて見えるものがある。
創作という仕事を通して、気がついていなかったものに気づく、見えなかったものが見える、自分を変えていくことができる。それがぼくにとって一番面白いことである。

現実の自分とこうありたいと願う理想の自分はずいぶんと離れているものだが、それを少しでも近づけるための手段として創作はとても有効だと思う。
創作上の課題の半分は技術的なものだが、半分は日常より一段深い意識層に属する問題であるからだ。

※「絵本作家の仕事」は毎週木曜更新予定です。


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