絵本翻訳について2「翻訳家は個性を出すべきか?」

「翻訳家は訳文に自分の個性を出すべきか?」
これは難しい問題である。何人かの編集者に訊いてみたこともある。答えはいずれも「出すべき」であった。
編集者は依頼するとき、翻訳家を選ばなければならない。多くの翻訳家がいる中から目の前の作品にもっともふさわしい一人を選ぼうとするとき、個性が見えなければ話にならないと言うのだ。
もっともだ。
と思いながら、じつはぼくは個性を出したくないのである。いろいろ迷いはあるし、今後変わるかもしれないが、現時点でははっきりそうだ。
なぜか。
原著への尊敬である。ぼくはすばらしいと思わない本は訳さない。自分で探してくる場合はもちろん、出版社から依頼を受けた場合もだ。
すばらしい本はなるべくそのまま日本語におきかえるのがいいだろう。
言語を変えながら味わいは極力変えないことを目指す。この方針で精度を限界まで上げられたなら、理屈上は誰が訳しても同じになるはずで個性の入る余地などない。
もちろん現実は全然違って、言語の違い、文化の違いはじつに強力で、10人が訳せば10通りの明らかに味わいの異なる訳文ができてしまうのだが。

個性を出すとは他の誰でもない「自分の表現にする」ということだろう。
気になるのは一部に、原文を変えることをよしとする、むしろ高く評価するような風潮があることだ。
翻訳で原著よりよくする、などと言う人さえいる。いくらなんでも思いあがりだろう。原文を変えざるを得ないことがあるのはよくわかる。というかそんなことは一度でも翻訳の仕事をすれば誰でもわかる。しかし翻案でなく翻訳なら改変は最小限にすべきだ。
いじりまわさないといい本にならないならそもそも翻訳に向いていない本なのだ。訳さなければいいではないか?

ぼくは絵本の翻訳者としては「無色透明になる」ことを目指している。どこで勝負するのかと問われれば精度だと思う。翻訳はどうしたって原作者の表現に翻訳者の表現が重なるものだが、それでも原作がにごらずはっきり見えるように透明度を高めたい。
完全にはどうせできない。消しても消しても残ってしまう自分らしさはある。個性はその程度で充分ではないか。
ぼくは一方で創作もしていて、そちらは個性を出してなんぼの仕事である。創作で充分(すぎるほど?)自己主張しているから、翻訳では自己主張したい気持ちがないのかもしれない。

翻訳の仕事を始めたころは、訳書にサインすることに抵抗があった。著者ではないからだ。あるときお世話になっている編集者Hさんに言われた。
「自分の本を広めるのも著者の仕事。でも海外の著者が来日できることは少ない。翻訳家は著者の代わりにがんばらなきゃ。翻訳家は日本における著者なんですよ。サインしていいんです。いや、するべきなんです」
それからはサインを求められたら、むにゃむにゃ言ってないで応じることにした。ただし脇の方に小さく書く。ぼくはその本が生まれるにあたっての最重要人物ではないからだ。
今の時代、読者が原著者に会える機会だってないとは限らない。そのときのために一番広い場所、主役の場所は残しておかなければならない。

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