自立。子離れ。レッテル貼り。子どもから大人までの絵本『たまごのカーラ』(文・風木一人 絵・あべ弘士 小峰書店)

「カラじゃないんだ カーラだよ
ひろいせかいに ただひとり
ほかのだれでもない あたし
じぶんであるいた そのひから
カラは カーラになったのさ」

絵本「たまごのカーラ」風木一人 あべ弘士 小峰書店

風木一人・文 あべ弘士・絵【amazonで見る】

これは大人のファンが多い絵本だ。「大人向けなんですか?」と訊かれることもある。無理もない。『たまごのカーラ』には明らかに「子離れ」のテーマが含まれている。我が子を立派に育て上げることを最大の目的として20年(あるいはそれ以上)過ごした母親が、目的が達成されたゆえに子から「もういい」と言われ、「いやまだ必要だろう」と言うと「いや全然必要ない」と拒絶される。さあ人生をどう再構築するか。

最初からそういうことを書こうと思ったわけではない。ただカラの話を書きたかった。
たまごが割れて誰か生まれてくる。その「誰か」が主人公になる話はたくさんある。しかしカラはどうなったのか? カラのその後を語る話はどこにもない。
ないなら書いてやろうというのが作家の習性だ。

カラを主人公に考えだすと、自然と子離れのテーマが浮上した。
子ども向きのテーマとはいえないが、しかたなかったのだ。作者は神のように登場人物や作品世界を自由に操れると思っている人がいるがそれは違う。神のように万能なときがあるとすればまだなにも書いていないときだけ、真っ白な紙を前にしたときだけだ。ひとこと書いたら、一滴絵の具を落としたらもうそれに縛られてくる。
アイデアにはすでに方向性が含まれていて、たまごのカラを主人公にした時点で子離れのテーマは回避しようがなかった。
それでも絵本だから子どもに読んでもらいたい気持ちはあったし、ぼく自身の問題意識も子離れに一点集中してはいなかった。
そこでどうしたかというと、一般化した。
作中カーラは何度も「たまごのカラなのに」と言われる。「中身が生まれたあとのたまごのカラはゴミだ」という先入観からの発言で、それは、カーラ個人を見ることなく、その属性のみ見ていることから生じている。
レッテル貼りと言ってもいいだろう。「母親だから優しくなければならない」とか「男の子だから泣いてはいけない」とか世間はレッテル貼りに満ちている。
女だから男だから。子どもだから大人だから。若いから年寄りだから。会社員だからアーティストだから。異性愛だから同性愛だから。日本人だから外国人だから。
それらすべてに対してカーラはNOを言う。「カラじゃないんだ、カーラだよ」と。「属性ではなく私自身を見ろ」と。
まわりに求められる画一的な役割か、自分が主体的に選び取ったものか。世間に合わせるか、自分を貫くか。これなら誰にとっても切実なテーマだろう。もちろん子どもにとっても。子どもがどれほど「期待される役割」と「自分の本当の気持ち」のあいだで葛藤しているか理解できないのは「忘れてしまった大人」だけだ。
「お兄ちゃんでしょ」とか「一年生でしょ」とか、うるせーよ。オレはオレなんだよ。他の一年生とは関係ねーんだよ。あいつともこいつとも全然違うんだよ。ちゃんと・オレを・見てくれよ!

そういうわけで『たまごのカーラ』は大人向けの絵本ではない。子どもから大人まで誰でも読んでもらいたい絵本だ。

いつもそうなのだが、ぼくはひらめくまでが長く、ひらめいてからは早い。だから上のようなことを考えるのにそれほど時間がかかったわけではない。
考えるというより直感的に選んだ。調子のいいときは理屈ぬきで進むべき道が見えるから迷わずそのまま進む。
後からふりかえって初めて「ああ、こういうことだったのか」と自分の選択の理由がわかったりする。

「なかみは からの からっぽで
ふえもしないし へりもしない
あしたは きのうの あさってで
どこまでいっても あたしはあたし
カラと カーラの あいだには
みえない なにかが あるんだよ
だいじな なにかが あるんだよ」

2003年の絵本だが、今も、カラとカーラのあいだにあるものを探りながら生きている。

☆     ☆     ☆     ☆

「絵本作家の仕事 by 風木一人」は毎週月曜更新予定です。

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