1冊の絵本にも1国の文化のすべてが関わっている。『とりとわたし』(ケビン・ヘンクス作 ローラ・ドロンゼック絵 風木一人/ひびのさほ共訳 あすなろ書房)

初めて翻訳した絵本である。翻訳することになった経緯はこちらに記した。<必要なのは英語力か日本語力か?>
初めての仕事ほど、多くのことを学べる仕事はないだろう。この絵本によって、頭をごつんごつんあちこちにぶつけるようにしながら翻訳の難しさ奥深さを垣間見た。
いくつもあった「ごつん」のうち、とりわけ大きかったもののことを今日は書こう。

絵本「とりとわたし」ケビン・ヘンクス ローラ・ドロンゼック 風木一人 ひびのさほ

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『とりとわたし』(原題 ”BIRDS” )は少し変わった絵本である。
だれかが鳥のことを語っているのだが、それが何者かよくわからない。絵には鳥たちだけが登場し、語り手の姿は出てこないのだ。
読者はだれがしゃべっているか知らないままに読み進み、最後でようやく語り手であるらしい少女を見つけ「ああこの子だったのか」と気づくようにできている。
この仕掛けを生かして訳すのは難しかった。英語の特性と関わっているからだ。
英語では一人称は ‘I’ のみだし、話者が男性であるか女性であるか、子どもであるか大人であるかによる口調の変化も少ないが、日本語では話者によって一人称も口調も大きく変わる。

ぼくははじめ冒頭部分をこんなふうに訳した。
「あさ おきたらね、 いろんな とりの こえが きこえてくるの」
終りまで読み、語り手が少女であることを知った上でそれを明示したわけだ。以降も数か所で同様の方針をとった。
それに対して編集のYさんから「原著はあえて語り手の正体を伏せて進めているのだから日本語でもそうするべき」との意見が来た。
もっともなのである。ぼくもそうしたかった。しかしはじめ明らかに少女を思わせる口調で訳したには理由があった。
日本語で、語り手の姿が見えないような口調にすると、冷たくなってしまうと感じたのだ。
一般的には、個性のない語りは魅力がない。どんな人がしゃべっているかの情報があればあるほど言葉は心にとどくものだ。絵がついていればいいのだが、この絵本の場合は、姿も見えないし、年齢も性別も何をしている人かもわからない状態で進むことになる。それでは読者がついてきてくれないのではないか。
不安だったが、Yさんの要請だから、語り手がだれかを明らかにせず、それでも冷たくならないように気をつけながら、語尾を中心に細かく手を入れていった。
「あさ おきたら、 いろんな とりの こえが きこえてくる」
結果的に、Yさんが正しかった。懸念したほど無機的にはならず翻訳することができた。Yさんにはわかっていたのだろう。翻訳書経験豊富なYさんが、初めてのぼくより正しい判断力を持っていたのは、考えてみれば当然のことである。

言葉は文化であるから、言葉の違いは文化の違いである。
日本語が英語よりもいわゆる男言葉と女言葉の違いが大きいのは、男性と女性を区別する意識も大きいからだろう。その背景にはそれぞれの長い歴史がある。
1冊の絵本のごく短い文章を訳すだけでも、翻訳者は2つの国の長い歴史の前に立つことになる。それが初めての翻訳で知った一番大きなことだった。

☆     ☆     ☆     ☆

※2013年度の読書感想画中央コンクールで『とりとわたし』を読んだ橋爪優暮さんが【 高等学校の部最優秀賞 】を受賞されています。

「絵本作家の仕事 by 風木一人」は毎週月曜更新予定です。
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