家系図調べと祖霊崇拝と永遠の生命と(1)

家系図調べに凝る人達がいる。若い人にはあまりいない。私の個人的な知識からいえば、たいていは定年退職後の男性である。
若い頃には見向きもしなかった古い書き付けを納戸の奥から引っ張りだしてきて、何代前の先祖は何藩の侍で、これこれの家柄であったとか、どこの誰と姻戚関係があったとか、かなりの情熱を傾けて研究する。
家系図以外の古文書も読み解いて、先祖の在りし日の姿に思いを馳せる。
古い文書を読むのは、その文字を解読するだけでも大変な作業だろう。そうして研究した成果を著作にまとめる人もいて、そこまで行くと、郷土史の史料として一定の価値が出てきたりする。

先祖についての知識というのは、昔(高度成長期頃までか)は、ある程度の歴史のある家では当然皆が持っているものだったのではないか。
古い家制度に反発した団塊の世代の人々でも、法事の集まりに顔を出せば、いやでも親類の爺様達から、先祖の話を聞かされたことであろう。
だが、高度成長期の民族大移動以来核家族化が進み、親類間の付き合いも減り、法事などの行事も大幅に簡略化されつつある現在において、未だに家系図に凝る人たちが少なからず存在するというのはどういうことであろうか。

日本仏教というのは、基本的には祖霊崇拝であると思う。
日本仏教の最も重要かつ広く普及した祭礼と言えば、葬儀と一周忌などの法事をのぞけば、春秋のお彼岸と夏のお盆である。いずれも、家に帰ってくる先祖の霊をもてなす行事だ。
古代仏教の輪廻転生の思想からはかけ離れているが、祖霊を祭るというのが日本仏教の最重要課題であろう。(祖霊崇拝は、中国、朝鮮半島など、東アジア全体に共通する宗教形態のようだ。)

では、なぜ先祖を祭るのだろう。
仏教で仏(阿弥陀、釈迦など)を拝むのは、仏による救済を願うからだ。ユダヤ−キリスト教で神に祈るのも、自分の信仰を示し、神の加護を願うためだ。
では、お盆に先祖を供養するのは、祖霊による庇護を期待してのことだろうか。
場合によっては、先祖に何らかの力添えを願うこともあるだろうが、一般的ではないだろう。最近亡くなった親族がいる場合は、その人に向かって話しかけ、その人とのつながりを感じることが重要だろう。それに加えて、個人的には会ったことのない先祖に対しても祈りを捧げ、先祖と自分の間の絆を確認し、一体感を味わうということも重要なのではないか。
一族の世代間の連鎖(自分がその末端にいる)に一体感を感じることが、その感覚が、宗教における祖霊崇拝の原点ではないだろうか。

先祖とのつながりの感覚を求める気持ちを心のどこかに持ちつつも、先祖の霊などという非科学的な考えや古くさい年中行事をそのまま受け入れることは理性が許さず、となると、家系図や家系に関わる歴史資料の研究というのは、非常に良い妥協点かもしれない。
(つづく)


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