祖霊崇拝をしない宗教−キリスト教の場合

前回は、祖霊崇拝を行なわない宗教の一つとして、仏教を取り上げた。今回は、もう一つの世界宗教、キリスト教(とユダヤ教)を取り上げてみたい。

キリスト教では祖霊崇拝は行なわない。だが、キリスト教においては、先祖から子孫への世代の連鎖の一部として自分の存在を永遠化する代わりに、人は死後に神の力によって復活するとしている。
全知全能の神の力による一度限りの復活、そして永遠の生命。この信仰は、自分の存在の永遠性を保証するのに十分であろう。
ただし、神によって復活され、永遠の生命を与えられるのは、神に対して正しい行いをした者達だけである。その点、日本の「御先祖様」とは趣が異なる。

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ところで、私が創世記を読んだときに、とても不思議に思ったことがある。
アダムとイブの楽園からの追放、カインとアベルの悲劇、ノアの洪水など、シェークスピア劇に勝るとも劣らぬドラマティックな物語の合間に、いくつかの家系の詳細な系図、分布が淡々と記されているのである。
ご存知の方も多いだろうが、一例を挙げると以下のようになる。

「アダムは百三十歳の時、彼に似せて、彼の像のように子を生み、その名をセツと名づけた。アダムはセツを生んだ後、八百年生き、多くの息子むすめを生んだ。アダムの全生涯は九百三十年に及び、ついに死んだ。セツは百五歳の時、エノスを生んだ。セツはエノスを生んだ後、八百七年生き、多くの息子息女を生んだ。セツの全生涯は九百十二年に及び、ついに死んだ。エノスは九十歳の時・・・・」

この家系の記述だけで、このあと20行続くのである(岩波文庫版)。私のような不信心者の一読者にとっては、なぜこのような詰まらぬ話にページを割くのか、理解に苦しむ。

だが、旧約聖書がいつ頃成立したか知らないが、少なくとも二千年以上前なのは確かだ。このように長い年月にわたって受け継がれてきた物語に、無駄な部分があるとは思えない。
おそらく、ユダヤ教徒、キリスト教徒の人たちにとっては、このような家系の記述も、アダムとイブの楽園からの追放やカインとアベルの物語と同じように重要な意味を持っているのだろう。

旧約聖書は、もともとはユダヤ人の民族宗教であるユダヤ教の聖典であった。祖国を失い、世界中に散り散りになったユダヤ人達にとって、信仰が民族のアイデンティティ、結束を支えるためにも重要なものだったことは想像に難くない。日本の祖霊信仰が、かつて一族の結束の為に果たした役割に近いものがあるのではないだろうか。(規模は遥かに大きいが。)

そして、一部の日本人が自分の家の家系図や先祖の物語(中には半ば神話化されているものもあろう)によって自分と一族の一体感を感じるように、ユダヤ人は、「カインとセツの系図」、「アダムの系図」、「エサウの系図」などを読んで、このような系図の末に自分を位置づけ、民族との一体感を感じることができるのではなかろうか。

キリスト教徒にとっても、このような詳細な系図を繰り返し読むことで、自分も、神によって作られたアダムとイブの末裔の一人なのだという感覚を新たにすることができるのではないか。

ユダヤ−キリスト教では造物主である神のみを信仰の対象とし、祖霊崇拝は行なわない。だが、ユダヤ教徒、キリスト教徒にとって旧約聖書は、字義通りに神と人との契約についての書であるとともに、「御先祖様の物語」という意味もあるのではないだろうか。