「資本主義」という宗教に対する懐疑(その3) 価値の尺度、「正当な対価」<後編>

一方で、世の中には値段を付けられない価値があるということも、周知の事実である。先日、恵まれない子供たちに匿名でランドセルを寄付していた「伊達直人」氏がカミングアウトしたが、彼の行いが偉いからと言って、賞金をあげましょうという人はいないだろう。もっと身近なところで言えば、あなたが電車の中でお年寄りに席を譲ったとして、相手がお金をくれたら、受け取る気になるだろうか?

先日、テレビ番組で英国のNational Gardens Schemeという団体の活動を紹介していた。この団体は、毎年The Yellow Bookという庭園のガイドブックを発行している。掲載されるのは、すべて個人の庭だ。専門の審査員が審査し、価値が高いと判定された庭のみが掲載される。この本に載ることは、その世界では大変な名誉だそうで、愛好家たちは大変な努力を傾けて庭を造り、掲載を申請する。掲載された庭は、原則無料で一般に公開される。お茶代などで得られた収益は、すべて慈善団体に寄付される。つまり、Michelinのレストランガイドなどとは違い、The Yellow Bookに載っても、庭の持ち主には金銭的な利益は何もないのだ。彼らを駆り立てる物は、美しい庭を造りたい、それを人々に見てもらいたいと言う自発的な欲求である。

もし、すばらしい庭の作者に、賞金を与えたらどうなるだろうか。彼らは今以上に庭作りに励み、今以上にすばらしい庭が出来るだろうか。そうはならないだろう。「内発的に動機づけられている活動に対して外的報酬が与えられると、内発的動機づけが低下すること」は、大学学部生レベルの心理学の教科書にも書かれている(*1)。
「内発的動機づけ」の源泉が何かは定かではないが、そのような物が存在すること、そして、「内発的動機づけ」と「外的報酬」(金銭など)の間にしばしば対立が起こることは、近代的な心理学によって確認されるよりずっと古くから、人々によって暗黙のうちに了解されていたことだろう。

隣人愛、慈悲、義などの宗教の倫理は、人間が自然に持っている「内発的動機づけ」を整理し定式化した物と言えるだろう。そのような「内発的動機づけ」は、それ以上の説明が難しいため、「神様がそう言った」式の説明になるのではないか。ただし儒教では、親子愛などの本能的な感情を道徳(仁)の基礎としている(*2)。

そういえば、学問や芸術も、多くの宗教の活動に含まれる。哲学をはじめ、キリスト教の聖歌、仏教の書画、造園など、例を挙げればきりがない。自然科学の発達にもキリスト教の影響が強いという。これらも、「内発的に動機づけられた活動」の代表といえる。

多くの宗教は、宗教的(倫理的)な価値と世俗的(金銭的)な価値を区別している。イエスの「神のものは神へ、カエサルのものはカエサルへ」という言葉は有名であるし、清貧を尊ぶことは、多くの宗教に共通する。それは、「内発的に動機づけられている活動」が「外的報酬」によって妨げられることを恐れるためだとは考えられないだろうか。

私は、資本主義も宗教の一つと捉えることが出来ると述べたが、他の宗教との大きな違いは、お金をあらゆる物事の価値の共通の尺度、兼交換の媒体としている事である。これは、非常に便利で強力な手法だが、お金は価値の尺度であると同時にそれ自体が「外的報酬」にもなるため、予想外の問題を生じやすいのではないか。

現代の我々にとって、資本主義の思想、制度の恩恵は非常に大きい。だが、お金で測れない、あるいは測ってはいけない価値がある事も、意識しておく必要があると思われる。信仰を持つ人にとっては、宗教がその助けになるのだろう。


*1 心理学概論 京都大学心理学連合編 ナカニシヤ出版 p.171。もともと内発的に動機づけられていない活動については、報酬が予想通りの効果を上げる。
*2 たとえば、「孝弟は、それ仁の本たるか」(論語 学而編)など。


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