宗教と集い(2)葬儀と「お別れの会」

前回、「宗教と集い」というテーマを始めたのだが、はたと困ってしまった。わたし自身が宗教の「集い」と呼べるものに参加したことがないのである。クリスチャンではないから教会の礼拝には行かない。仏教徒ではないから檀家の集会は関係ない。家の宗教は神道ということになっているが、特定の神社の氏子の会に入っているわけでもない。いろいろな祭を見に行ったことはあるが、あくまで見物客としてであり、祭に「参加」したことはない。ではなぜこのようなテーマを選んだかについては、また後日説明することとさせていただき、今回と次回は、わたし自身が参加したことのある宗教的集いである「葬儀」について考えてみたい。

近年、葬儀の形式が変わりつつあることに気づかれている人は多いと思う。新聞の訃報欄を見ても、「葬儀は近親者で営んだ。後日、お別れの会を開く。」といった記載が目立つ。ためしに毎日新聞web晩の訃報欄に載っている最近の20件(日本人のみ)を調べてみたところ、葬儀の案内が載っているのが6件、葬儀以外のお別れの会などを開くと予告されているものが5件、葬儀は近親者のみで行なったと報告されているものが7件、葬儀は行なわないとしているものが2件だった。

近親者のみで葬儀を執り行うケースが多い理由の一つは、仕事と家庭の分離が進んだことだろう。江戸時代、とまで言わずとも、昭和の初めまでであれば、日本人の多くは家庭生活の場と仕事の場が地理的に重なっていることが多かった。人口の大多数を占める農家はもちろんのこと、都市生活者も多くは個人事業主(商店、町工場の経営者)あるいはその従業員で、住居の近くで働いていたことだろう。当然、家族と仕事関係者の付き合いも濃かったと考えられる。サラリーマンの増加した昭和の後半であっても、会社員同士が家族ぐるみの付き合いをすることも多かったし、部下が結婚するときには上司が仲人をするのが当たり前だった。自然と、故人の仕事上の人間関係を家族が把握しやすく、葬儀の折にも遺族と故人の仕事関係者が協力する下地があっただろう。現在のように職場と家庭が(心理的にも、物理的にも)遠く離れてしまうと、葬儀は親族や近親者のみで、と考えるのは自然なことだろう。

そもそも、葬儀というものには何の意味があるのだろうか? 現代の日本に、僧侶の読経によって故人のたましいが極楽に行けると本気で信じている人がどれだけいるのだろうか。信じていないのだとしたら、何のために葬儀を行なうのだろうか。

興味深いのは、伝統的な(多くは仏式の)葬儀に替えて、あるいは近親者による葬儀に加えて、無宗教の「お別れの会」を行なうケースが目立ってきていることである。前述の新聞の訃報欄でも、20件中5件は「お別れの会」であるし、近親者のみで葬儀を行なった7件も、後に「お別れの会」を開く可能性は十分にあるだろう。

本連載の第1回で話題にした韓国ドラマでは、葬式の場面が2回でてくる。その様子があまりに日本の葬式に似ているので驚いてしまった。やはり通夜があり、通夜振舞いが出され、親戚や関係者が飲み食いしながら話をする。また、欧米のキリスト教式の葬儀でも、こちらはおそらく埋葬の後に、参列者が会食することが多いようだ。宗教、国、文化によらず共通するのは、皆で集まって飲み食いしながら語り合うということだ。とすると、「葬儀」において重要なのは、聖職者による祭祀ではなく、むしろ故人と関係のある人々が集い、語り合うことではないだろうか。飲み物、食べ物というのはおそらく会話を弾ませるためのツールだろう。そう考えると、無宗教の「お別れの会」というのは、より純粋な葬儀の形態といえるかもしれない。
(つづく)


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