宗教と集い(4)人と人の絆

前回、私が最近無宗教の「お別れの会」に出席したことを書いたが、そのうちの1回は、母校の元校長のお別れの会であった。あいにくの冷たい雨にも関わらず、卒業生が数多く集まり、1000人ほどは収容できる学校の講堂が満席になった。
親族の方や先生の同級生、卒業生の代表などが先生の思い出を語り、聞いている我々も、ああ確かにそういう人だったとか、そんなこともあったのかとか、めいめいに故人を偲ぶことが出来た。先生が亡くなってからひと月以上経っていたこともあり、悲しいというよりは和やかな会であった。
さて散開となると、夕暮れ時でもあり、皆一斉に知り合いの顔を探し、同期生、クラブの先輩後輩などと三々五々街へ繰り出して行った。私も同期の連中10名ほどと近くの飲み屋に入った。献杯をすませ、黒いネクタイを緩めれば、あとは単なる同窓会である。久しぶりに会った友人同士、お互いの近況と思い出話で盛り上がった。

不謹慎な、と怒られるかもしれないが、そもそも世間一般のいわゆる仏事(神道で言う「祭」)というものは、故人を偲ぶという意味に加えて、仲間を集め、生きている者どうしの絆を再確認し、強化するという意味も持っているのではないだろうか。
人が亡くなった直後に執り行われる葬儀であれば、近親者の喪失感を分かち合い和らげるという意味が大きいだろうが、死後一定の時間が経った後に行なわれる「お別れの会」では、むしろ、故人との縁で結ばれた人たちの絆の強化という面がより重要になるのではないか。(むろん、故人との関係によって参加者の心持ちはさまざまであろうが。)
仏式でも、通夜や葬儀は別として、四十九日、一周忌、三回忌となると、次第に後者の、生きている人たちの絆の再確認という意味が大きくなるように思われる。

この、人々の絆(あるいは集団への帰属意識、仲間意識と言い換えても良い)を確認、強化するということも、宗教の重要な機能の一つとは考えられないだろうか。
日本仏教、神道などの日本の宗教の祭礼、儀式は、親族の集団が中心となって行なわれる。そしてこのような宗教儀式が、少なくともかつては、血縁で結ばれた一族の絆を強める役にも立っていたようである(*1)。
外国の宗教についてはよくわからないが、キリスト教の日曜礼拝なども、神と信者との関係だけでなく、信者相互の関係の強化に役立っているのではないだろうか。
ある私の知り合いが数年間アメリカで暮らしたときは、近所の教会の日曜礼拝に(キリスト教徒でないにも関わらず)しばしば参加し、そのことが地域の人たちとの繋がりを深めるのに役に立ったそうである。
今回例にあげた元校長のお別れの会も、同窓生という集団の絆を強める役割を立派に果たしている。そういう意味では、「無宗教」のお別れの会も、前回述べたように残された者たちの喪失感を癒すこと、故人のたましいを成仏させることに加えて、生きている人々の心理的な絆を強化するという、宗教の重要な機能を担っているといえるのではないだろうか。

(*1 このあたりの事情は、柳田国男「先祖の話」に詳しい。また、江戸時代の武士が親戚付き合いや仏事をどれだけ大切にしてお金も使っていたかについては、磯田道史「武士の家計簿」の中で資料をもとに詳細に解説している。いろいろな意味で面白い(interesting and amusing)本である)