宗教と集い(5)心の理論・見解の相違・信念の共有(後編)

他者と自分の考えが違っている(かもしれない)ということ、自分の信じる真実と他人の信じる真実がちがう(かもしれない)ということに気づく能力は、ヒトのコミュニケーションに多大な貢献をしているだろう。だが同時に、自分の信じていることが、他の人たちにとっては真実でないかもしれないという考えは、ヒトに特有の不安の元にもなるだろう。

「真実」とか「信じていること」などというと、ずいぶん大きな話のようだが、例えば小学生のときに、クラスで自分の意見を言うのに抵抗を感じた経験のある人は多いだろう。社会人でも「会議で意見を言うのが苦手」という話はよく耳にする。そういったことも、「自分の考えが受け入れられないかもしれない」「自分にとっての真実は、他の人たちにとっては真実でないかもしれない」という不安の現れと考えられるだろう。

言葉で意見を言う場合だけではない。例えば服装についても、「周りの目を気にせず、自分の着たい服を着る」ということは、誰にでも出来ることではない。むろん、個人差や文化・国民性による差は相当大きいと思われるが、例えば、一般的に自分の意見をはっきり言うといわれるアメリカ人でも、目立つことを恥ずかしがる気持ちはあるようだ。
ただしアメリカ人の場合、子供の頃から自分の意見を言う訓練を受けているし、みんなが意見をはっきり言っている社会では、意見を言わないことの方がむしろ恥ずかしいことになってしまう。

少々話題がそれてしまった。「宗教と集い」の話に戻ろう。自分の信じることと他者の信じることが違うかもしれないということが不安を生むなら、その不安を除くには、自分と同じ信念を持つ人たちと集い、自分の信念を承認してもらう体験を持つことが有効だろう。
そのような体験を持つこと、自分が承認されている実感を持つことは、ヒトの心の安定にとって非常に重要なのではないか。別の言い方をすれば、自分(の信念)が孤立しているのではなく、他の人々とつながっている、人々のつながりの中に含まれているという感覚が必要、とも言えるだろう。
たましいや神の存在、倫理観といった非常に重大な信念に関わる宗教の場合、同じ信念(信仰)を持つ者どうしが集まり、互いに承認し合うということがとくに重要になるのではないだろうか。だからこそ、多くの宗教が信者の集団を作るのではないか。

このような集団は、一つ間違えば非常に排他的になるだろうし、実際に排他的な宗教集団はある。しかし、逆説的に聞こえるかもしれないが、自分の信念が他者に受け入れられていると確信できることで、安心して、自分と異なる信念を持つ人たちとも対話できるようになるのではないだろうかと、私は考える。
ただし、ある信念(信仰)を持つ人たちの集団全体を脅かすような大きな不安が生じた場合は、集団全体としての排他性や、他の集団に対する攻撃性が高まることになるのではないだろうか。
そのあたりが、信仰を持つ人たちの普段の優しさ寛容さと、歴史上のさまざまな危機における排他的、攻撃的な行動とのギャップを生むのではないか。
根拠の少ない、半ば空想であるが、そんなことを考えている。