神話と物語(1)ヒトは物語を作る動物である

前回の原稿に対して、ホテル暴風雨の風木オーナーから、「感情的な体験を表現するものに芸術もある。芸術と科学ではダメなのだろうか。芸術では満たせない、宗教なら満たせるものは何か」という趣旨のコメントをいただいた。

芸術は私の苦手分野なので、こういった問題は無意識のうちに避けていたのかもしれない。しかし、せっかく提起していただいた問題だから、少し取り組んでみたい。
「宗教と芸術」というのはあまりにも大きなテーマで、歯が立たないどころか歯が折れてしまいそうだから、少し対象を限定し、「神話と物語」について考えてみたい。

世の中には様々な種類の物語がある。神話、昔話、伝説といった古いものから、古典、現代小説まで。現代の小説は、大抵は一人の作家によって書かれる。著作権というものが認められ、中には著作権料で生活している職業的作家もいる。
だが、職業的作家でなくても、物語は作る。幼稚園児のままごとなどは物語(小説ではなく戯曲だが)の創作に他ならない。舞台設定があり、複数のキャラクターが登場し、様々な人間関係が展開する。また、小さな子供はよくお話をする。他愛のない内容であっても、きちんと起承転結のある物語になっていることも多い。
小学校の中学年、高学年になると、物語を書く子が現れる。それほど多くはないだろうが、小学校のクラスに一人くらいは、そういう子がいるのではないだろうか。また、考えてみると、小学生の仮面ライダーごっこ(というのを、今の子供たちもするのだろうか?)なども、テレビドラマの設定は使っているが、ストーリーはかなりオリジナルなものが多いから、これも物語の創作と呼んで良いだろう。
みなさんの中で、子供の時にままごとも、お話づくりも、ごっこ遊びもしたことがないという人がいるだろうか。子供は皆作家、物語の作り手なのである。

では、大人はどうだろう? 10代になって長い文章が書けるようになると、小説を書く人たちが出てくる。だが、その数はわずかだ。10代以降、多くの人たちにとって、物語は自ら作るものではなく、鑑賞するものになっていく。
本当に?
コメディー映画や漫画では、しばしば登場人物が空想にふけって馬鹿なことをし、周囲の人に笑われる。だが、空想にふけって束の間現実から離れるのは、現実に暮らす我々も、時々やることである。若い頃、好きな異性に告白する(そしてもちろん受け入れられる)場面を想像した記憶のある人は多いのではないか。あるいは、会社員の中には、嫌な上司に辞表を叩きつける場面を、何度も想像している人もいるのではなかろうか。このような空想も、一種の物語の創造と言って良いのではないか。

誰に語るわけでもないが、街を歩いているときや、仕事の合間のふとした隙間時間に、意識は目の前の現実を離れ、空想の物語の中を生きる。そしてすぐにまた現実に戻り、場合によっては自分が空想していたことさえ忘れてしまう。子供のごっこ遊びと同じである。いっとき変身ヒーローとなって悪を倒す物語を生きるが、しばらくすると現実に戻り、宿題をしたり、ご飯を食べたりする。子供も大人も、ヒトは物語を作る動物なのである。

長くなるので、続きは次回に。