宗教とアイデンティティ(1)

以前、宗教の持つ重要な機能として、「『私』という存在を、先祖から子孫までの世代の連鎖の一部と考え」、主観的に「個体としてのヒトの寿命を超えて、『私』の存在を永遠化する」こと(第9回)、そして同じ時代に生きている多くの人々との「絆(あるいは集団への帰属意識、仲間意識と言い換えても良い)を確認、強化する」こと(第31回)があるのではないかという話をした。考えてみると、これはまさに人間のアイデンティティということではないだろうか。

アイデンティティというのは日本語に訳しにくい言葉だ。辞書的には、本人であること、同一であること。動詞はidentify、誰(何)であるかわかる、同一物であると認める。
アメリカの刑事ドラマで「被害者のアイデンティティ」と言えば、被害者が誰であるのかを示す、名前や住所や職業や家族などの客観的な事実のことだ。
心理学でアイデンティティといえば、「私はこういう人間だ、これこそが自分自身である」といった主観的な感覚のことだ。提唱者のエリック・エリクソンは特に、所属する集団との関係を重視している。もちろん、どんな集団に所属しているかという客観的な事実のことではなく、自分がその集団の一員として意味のある存在であるという感覚だ。
日本の伝統社会であれば、同じ先祖を祀る家(イエ)、一族、あるいは同じ祭りに参加する氏子集団や村落共同体というのがアイデンティティの主要な要素だったろう。
もちろん、人が自分をアイデンティファイする集団には、宗教と関係のないものもたくさんある。昭和の高度成長期以降の日本のサラリーマンにとっては、会社が非常に重要だったと思われる。もちろん個人差は大きいだろう。仕事一筋の佐々木課長にとっては、会社こそがアイデンティティかもしれないが、同じ会社に所属していても、ぐーたら社員の浜崎君にとっては、会社など重要ではなく、むしろ趣味の仲間の方が重要かもしれない。アイデンティティというのは、あくまで主観的なものなのだ。

ところで、会社には定年がある。定年退職して会社から切り離された元サラリーマンは、もう会社の一員という実感は持てない。新たなアイデンティティを探さなければならない。定年退職後の男性が、家系図などに凝るというのは、新たなアイデンティティの確立を模索しているとは考えられないだろうか。
宗教には定年がない。定年どころか、死後のアイデンティティまで保証してくれるのだ。ただし、もちろんそれは、祭祀を継承してくれる次の世代がいればの話である。田舎に住む老人たちが、子供に家や墓を継がせることに拘るのは、自分のアイデンティティが関わった問題だからではないだろうか。

さて、昭和は遥か昔、平成になって四半世紀以上が過ぎた。もはや家や村落共同体をアイデンティティの拠り所とするのは多くの人にとって困難と思われる。墓の継承者がいない、人口減で祭りが維持できないというニュースはよく聞くし、寺の檀家の減少も深刻のようだ。現在の日本人のアイデンティティにとって、宗教の果たす役割は確実に小さくなっている。
一方、終身雇用制が崩れたことで、人が自分を会社や職場にアイデンティファイすることも難しくなっている。現代は、個人が健康なアイデンティティを維持することが、かつてなく難しくなっている時代かもしれない。