宗教とアイデンティティ(3)(終)

現在の日本で、会社からも社会からも切り離された人たちにアイデンティティを供給する大きな存在は、国家かもしれない。
作家、雨宮処凛が毎日新聞で、自身のフリーター時代の体験を語っている。その中で、当時の心境について『「自分は日本の底辺にいて、外国人労働者とまったく変わらない。もし外国人労働者と自分を区別するものがあるなら、それって日本人であることしかない」みたいな、過剰に日本人であるってことにすがっていきました。』と述べている。(https://mainichi.jp/articles/20150804/mog/00m/040/003000c

今、様々な国で、排外的なナショナリズムが広がっている。その様子は、伝統宗教を捨て、資本主義からも疎外された多くの人たちが、最後のアイデンティティの拠り所として自国民であること(nationality)にすがっているように見える(*1)。

自国を愛することは悪くない。だが「愛国者」どうしで固まって、外国や外国人との交流を絶ってしまうと、外の人々にとって危険な存在となってしまうだろう。

アイデンティティとは、自分が過去から未来まで連続性を持った存在であり、ある集団(社会)に帰属している(絆を持っている)、そして自分がその集団の世界観、倫理観に照らして好ましい有意義な存在であるという実感である。地域社会、職業など、様々な集団がアイデンティティの供給源(アイデンティファイする対象)となる。
宗教も、特有の世界観(神話)や倫理観(教義)、信者集団との絆の感覚を提供するが、とくに、自分の生まれる前や死後の人々とも絆を感じることに宗教の特徴がある。
資本主義にも特有の世界観と倫理があり、資本(財産)や事業の継承を介して世代間に強い絆を作る。その意味で、資本主義を宗教と呼んで構わないだろう。現代においては、資本主義が世界最大の宗教と言って良いだろう。

私は、良い宗教(あるいは宗派)の条件として、二つを挙げたい。第一に、自分の存在が有意義である(良き信者である)と感じるためのハードルが高すぎないこと。第二に、信者集団が、外の世界と調和していること。

昭和30年代、40年代を懐かしむ人が多いが、たしかにこの時代の日本の資本主義は、様々な問題があったにせよ、かなり良い宗教だったのではないか。多くの人の間で、勤勉に労働することで未来が良くなるという神話が共有され、例外はあるにせよ、多くの人の生活が目に見えて豊かになったことで皆が「自分も良くやっている」と感じ(自分の存在意義の実感)、生産した製品は世界の人々に歓迎された(外の世界との調和)。だが、明らかにこの成功は当時の日本と世界の経済状況に依存したものだった。

現在、資本主義に基づいて安定的なアイデンティティを確立できる人は少ないのではないだろうか。経済的に豊かな人でも、(過去や未来を含む)社会との絆、自分の存在意義の実感という意味では、安定したアイデンティティを持っているとは言えないかもしれない。
では、資本主義に代わって多くの人のアイデンティティを引き受けることのできる宗教があるだろうか? あるいは、ナショナリズムを「良い」宗教にしていくことは可能だろうか?

最後に、エリクソンが、青年のアイデンティティの危機について述べた文章(*2)を引用して終わりたい。

『自分たちを団結させるために、彼らは同一性の完全な喪失を引き起こすように見えるほど、党派や群衆の英雄と自分を、一時的にせよ過剰に同一化させる。他方、彼らは皮膚の色や文化的背景、趣味や才能が違う他人、時によってはグループ内の者とグループ外の者を区別する「しるし」として、勝手に選んだ洋服や仕草などのごくささいなことがらが「ちがう」他人を排除するという点では著しく団結心が強く、不寛容で、残酷になる。そしてここで重要なのは、このような不寛容を、「同一性拡散の感覚に対する必然的な防衛」として理解することである。』

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《「脱宗教の時代に宗教について考える」の連載は今回で一旦終わります。今後も、不定期でぼちぼちと更新して行く予定ですので、今後ともよろしくお願いいたします。2017年4月19日 著者》


*1 昭和初期、大恐慌時代にも、こういう人たちはたくさんいたのではないかと想像する。日本にも、ドイツにも。
*2 エリック・エリクソン「自我同一性」(小此木啓吾 訳編)1973年誠信書房(原著出版1959年)