第3回 「フェイク・ニュース」と「印象操作」は日米文化差の象徴か?

「フェイク・ニュース」は、みなさんご存知のように、トランプ米国大統領が放ち、インターネットに乗って瞬く間に一世を風靡するに至った新造語だ。大統領は、御自身を批判する報道に反論するのにこの単語をひんぱんに使っておられる。

一方、我が国の総理大臣が、御自身への批判に反論するのに度々使われ、人口に膾炙するようになったのが、「印象操作」と言う言葉だ。こちらは残念ながら世界規模の広がりはないようだが、日本国内では十分に流行語大賞の主力候補となる資格ありと言える。

いずれも一国の首脳が、事実や論理を積み上げた長ったらしい説明を省いて、わかりやすく単刀直入に相手の主張を否定するために使っている言葉だが、その違いが、日米の文化差を表しているようで面白い。
「フェイク・ニュース」は、相手の主張する事実が虚偽であると言っている。もちろん大統領を批判する側は、自分たちの主張が事実であると主張する。争点は「事実か事実でないか」である。「アナザー・ファクト」と言う言葉が流行ったこともあるが、ここでも問題となっているのは「ファクト」(事実)である。
これに対し、「印象操作」の方は、相手の主張内容が事実か事実でないかには一切触れず、「印象」を操作していると言って批判しているのだ。首相の側も、「美しい国」とか「日本を取り戻す」とか、印象づけを狙った発言が多い。

だからと言って、アメリカ人が事実偏重で、日本人が印象偏重であるという二分法は成り立たないだろう。アメリカ人がいかに印象を重要視しているかは、たとえば大統領選のキャンペーンを見てもよくわかる。一般に、アメリカ人はスピーチやプレゼンテーションの技術を重視しているし、実際洗練された「印象操作」の技術を持っている人も多い。(コールさとうさんも紹介しているTEDxのトークは、アメリカ人自身から見ても行き過ぎたスピーチテクニックをジョークにしているもので、なかなか楽しい。)

ではアメリカ人と日本人の違いはどこにあるのだろう。
人は通常印象を介して事実を認識する。例えば、人は光の波長という物理的な事実を色という印象として認識する。
人を動かすのは事実自体ではなく、印象だ。そしてその印象は、背景色などの環境や、過去の経験から多大な影響を受ける。同じ事実でも、状況によって印象は異なるということだ。そこに「印象操作」の余地ができる。
だが、印象を通じてしか事実を認識できないにしても、アメリカ人は事実と印象をできる限り分けて取り扱おうと努力するのに対し、日本人は事実と印象をそもそも一体不可分のものとして取り扱う傾向があるのではないだろうか。
と、書いている私の文章自体が、どこまでが事実でどこからが印象かわからない日本人の思考パターンの良い見本かもしれない。