なにわぶし論語論 第21回「悪衣・悪食を恥ずる者は、未だ與に議するに足らず」貧乏を恥じるな!

「子曰く、士(し)の道に志すや、悪衣・悪食を恥ずる者は、未だ與(とも)に議するに足らず。」 (里仁 九)

――――ひとかどの人間になろうと志す人間が、粗末な服装や貧しい食べもの(しか得られない貧困)を恥ずかしいと思っているようでは、共に語り合う気にならない。――――

熱く激しい言葉である。偉い老先生が教え諭しているというよりは、アジテーターが檄を飛ばしているという感じである。聖人君子の言葉というよりは、君子になろうと奮闘している者の叫びである。
孔子が何歳の頃に言った言葉だろう。おそらく、若くて血気盛んだった頃ではないだろうか。老人が言ったら、周囲から「じじい、うるさい!」とか言われそうである。
イスラエルのイエスさんは若かったけど人間ができていたから、同じことを言うにも、顔に微笑みを湛えながら、「人はパンのみにて生きるものにあらず」とか静かに言ったのだろう。

孔子は決して豊かな生活を一概に悪とみなしているわけではないし、清貧を第一と考えていたわけでもない。第19回で紹介した里仁第二節では、仁者は恵まれた環境に満足することを知り、知者は恵まれた環境をうまく使って良い行いをすると言っている。豊かなことも悪くないし、貧しいことも恥ずかしくない。貧富や経済的利益の多寡は価値判断や意思決定の埒外であると考えるのである。

もちろん、経済的利益や費用を完全に度外視した判断、意思決定など、今の我々には考えられない。それはおそらく孔子の生きていた当時も同じだったろう。利益や豊かさを求めることが、工夫や発想の転換を生み、社会に役立つこともある。
そもそも、豊かになりたい、得をしたいというのは、人間の本能といっても良いくらい自然な感情である。一方で、困っている人、苦しんでいる人を見たら、損得抜きで助けてあげたい、というのも人間の自然な感情である。
どちらも自然な感情だが、なぜかいつの時代も前者の方が優勢になりがちなので、バランスを取るために、思想家、宗教家と言われる人たちが、後者の重要性を大きな声で叫ぶのだろう。

だが、そういうことを大声で言い立てる人は、たいてい人から嫌われるものである。嫌われても言わねばならぬこともある。君子は辛いのである。