なにわぶし論語論第32回「中庸の徳たる」

子曰く 中庸の徳為(た)る、其(そ)れ至れるかな。民、鮮(すく)なきこと久し。(雍也 二十九)

――――「中庸」は徳の中でも最も素晴らしいものだ。(しかし)人々は、ずっと徳を欠いている。――――

中庸とは偏りのないことである、というのは常識であるが、では、二つの意見の間を取れば中庸なのだろうか。極左と極右の意見の間を取れば中庸か? いや、そういうことではないだろう。
第10回「君子は周して比せず」で私は、『中庸とは、単純に「二者のあいだを取る」と言うことではなかろう』と書いた。私の解釈では、中庸とは「二つの相反する要請のどちらからも逃げることなく、悩みぬくこと」なのだが、儒教の正統な解釈はどうなのだろう。

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そういえば、儒教の四書の一つに、その名も「中庸」というのがあったはずだ。
さっそく本屋に行き、岩波文庫版「大学・中庸」(本体価格780円)を買ってきた。前半の「大学」はすっ飛ばして、中庸だけを読んでみたが、驚いた。「中庸」という書には、「中庸」という概念の説明がほとんど書いてないのである。むしろ「誠」について述べた部分の方が多いくらいで、私ならこの書のタイトルは「誠」にするだろう。昔の人のおおらかさというべきだろうか。

とはいうものの、第一章第二節では、中庸というものを非常に明快に定義している。もっとも、ややこしいことに、この節では「中庸」という言葉を使わずに、「中和」と言っているのであるが、解説によれば「中和」は「中庸」と同じである。

「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中という。発してみな節に中(あた)る、これを和という」

喜怒哀楽の感情の起こらない平静な状態が「中」、感情が起こっても、節度を保っている状態が「和」(合わせて「中庸」)。要するに、感情によって判断能力が失われていない醒めた状態のことである。感情を否定はしないが、感情に支配されてはいけない。
意見の相違があっても、カッカせず、冷静に議論ができる、それが大切というわけだ。

しかし、「民、鮮(すく)なきこと久し」。
いつの時代も世間では、「粉砕」とか「ぶっ壊す」とか「生きるか死ぬか」とか、感情をあおる激しい言葉の方が好まれる。
そうと知りつつ、中庸を守らなければならないのだから、君子は辛いのである。