なにわぶし論語論第35回「子の雅言するところ」

子の雅言(がげん)する所は、詩、書、執礼(しつれい)。皆雅言す。(述而 十七)

――――孔子が標準語で語られるのは、詩、書、礼法についてであった。これらのことは、皆標準語で語られた。――――

講談社学術文庫では、「標準語」ではなく「文語調」と訳している。ちょっと特別な古い読み方という点を強調するためだろう。
当時の中国語は(現在でも同じだろうか?)、文字は統一されたが、発音は地方によって全く違ったそうである。雅言というのは、周の王都の発音で話すこと。孔子は周の古い文化や政治体制を理想としていたから、普段は魯の言葉(方言と言ってよいだろう)で話していても、詩、書、礼法については周の標準語で語ったのだ。

詩、書はそれぞれ詩経、書経という書物(いずれも儒教の五経に入っている)であったという解釈もある。何れにしても、これらのことを話題にするときは普段の会話とは違う、あらたまった言葉遣いをしたというわけだ(*)。

逆に言えば、それ以外の普通の会話や議論の時は、孔子も弟子たちも方言を使っていたわけだ。
漢文の日本語訳と言うと、いつも文語調と決まりきっているが、広い中国だから、様々な方言があるのはむしろ当然だろう。文語調の翻訳のせいで、孔子や弟子たちはいつもああ言う堅苦しい話し方をしているように思い込んでしまいがちだが、そんなことはあるはずがないのである。日本語訳が堅苦しいせいで、論語の内容や孔子という人物までが堅苦しいように思われてしまうのは、孔子の本意とするところではなかろう。

実は論語の中にも、孔子が自宅でのんびりと楽しそうにしている様子を書いた節(述而四など)もあるのだが、それを文語調で読むと、ちっとも楽しそうではない。前回紹介した場面も、文語調だと孔子が子路を諭しているように読めるが、くだけた言葉にすれば、「考えなしに無茶するやつと一緒に行けるか、あほ」となるし、その方が全体の状況には合っていると思う。
論語を日本語に訳すときに、文語調はやめて、日本の方言にしてみたらどうだろう。冗談のように思えるかもしれないが、その方が、話し手のニュアンスや感情が、生き生きと感じとれるのではないだろうか。少なくとも、堅苦しい雰囲気だけは払拭できるだろう。
また、詩、書、礼法についてはわざわざ違う言葉で話したと言うのだから、それらについて語っている部分だけは文語調にして、他の部分と区別するのも良い訳し方かもしれない。
まあ、そんなこともしながら訳の正確さも期すとなると、ひどく難しい作業になりそうだ。せめて読むときに、頭の中で変換して楽しむくらいにしておこうか。
「先生が文語調で話さはるのは、詩ぃ、書ぉ、執礼。みんな標準語で話さはったなあ。」
だいぶん雰囲気が変わってくる。
また、博多弁訳の論語というのも読んでみたい。全ての節が「しぇんしぇいは言いんしゃった」で始まると、雰囲気があって良いと思うのだが、どうだろう。

*なお、「雅言する」を、「つねに言う」と読んで、孔子はいつも詩経、書経、礼法について語っていたとする解釈もあるそうだが、現在では少数派のようだ。

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