電車 居眠り 夢うつつ 第13回「リズムとファクトとポエムとエッセイ」

「酒と泪と男と女」みたいなタイトルである。カタカナばかりなので、見た目はずいぶん違うが。

前回はめずらしく詩のようなものを書いた。
詩のようなもの。いや、たぶん詩と言って良いのだろう。しかし、初めから詩を書くつもりではなかった。「人が感じる主観的な時間は、円環的な性質と直進的な性質を併せ持つ、螺旋のようなものではないか」というテーマでエッセイを書こうとしたのだ。
だが、書き始めの2、3行で何かおかしいと感じ、4、5行目ではすでに「これはエッセイではない」と諦めた。そして、疲労して夢うつつの脳から降りてくる言葉を、半ば自動書記のようにワープロに打ち込んだ。

エッセイにしようと思ったことが、詩になってしまった。
私は今まで、詩とエッセイは全く異なるものだと思っていたのだが、どちらを使っても、同じテーマを表現できるわけだ。このことは、私には新鮮な発見だった。
エッセイにするはずだったものを詩にすることに決めると、ある種の開放感があった。「今回は、事実確認はしなくていいのだ。」
エッセイ(随筆)というのは、なんらかの事実を書くものである。英語でEssayといえば、かなり硬い「小論文」あるいは「論評」のようなものを指すことが多い。カタカナで「エッセイ」と書くと、もっと柔らかいものが多いが、それにしても、社会で起こった出来事や、筆者自身の体験などの事実を書き、それについて論じるものだ。したがって、(客観的)事実というのがエッセイの基盤である、と私は思っている。どのような事実を取り上げるかが、エッセイの根幹と言って良いのではなかろうか。もちろん、事実誤認があれば話にならない。私でも、自分の体験はともかく、歴史上あるいは社会的な出来事について書くときには、できる限り事実確認をしているし、確認が取れない場合は、それなりにぼかした書き方をするようにしている。

一方、詩というのは、創作である。書かれていることが事実である必要はない。事実確認などせず、好きなことが書ける。これは素敵な体験だった。
では、詩を書く上で重要なのはなんだろう? 私のような素人がこういうことを論じるのもおこがましいが、普段詩を書かない者が苦労した点というのは、詩の重要な特徴と言えるのではないだろうか。
私が一番苦労したのは、文のリズムだった。表現したい内容を損なわずにリズムをつけるのが、とても難しかったし、また新鮮で面白いところでもあった。
もう一つ挙げるとすれば気分か。第一稿には、どうしょうもない疲労感や鬱々とした気分が纏わり付いていたので、それを取り払うのに苦労した。

リズムというのは、詩の命と言っても良いのではないか。俳句のような定型詩ではもちろん決められたリズムを守ることが必須だし、押韻というのも、言葉でリズムを作ることだ。音楽で言えばビートや拍のようなものかもしれない。現代詩では、ときにわざとリズムを崩す。現代音楽が拍子や和音をわざと崩すのに似ているが、それはまさに、リズムというのが詩や音楽にとって重要な要素であることの裏返しではないだろうか。

リズムが詩の肝であり、事実がエッセイの肝である。
「螺旋・・・」の場合は、エッセイにする予定だったものが詩になったわけであるが、両者には、表現するテーマの得手不得手がありそうだ。
たぶん、気分や感情を表現するには詩が適していて、客観的事実を記述したり、論理を展開するのにはエッセイが適しているのだろう。
めずらしく詩を書いたら、エッセイのネタがひとつできた。儲け物である。

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