なにわぶし論語論第40回「由らしむべし、知らしむべからず」 

子曰く、民(たみ)は之に由(よ)ら使(し)む可(べ)し。之を知ら使む可からず。(泰伯 九)

――――孔子曰く、民衆を政策に従わせることはできるが、政策(の意義)を理解させることは、(なかなか)できない。――――

実はとても有名な言葉だ。皆さんも多分どこかで(というか、日本史の教科書で)目にしたことがあると思う。日本でよく知られているという意味では、ひょっとすると学而編冒頭の「学びて時に之を習う」よりも有名かもしれない。だが、これが論語に載っている孔子の言葉だということを知っている人は少ないのではないだろうか。

私も、論語を読むまでは、これは徳川家康がつくった言葉だと思っていた。まあ、家康も名門大名の生まれだから、論語くらいは勉強していても全く不思議ではない。そういえば、「人の一生は重き荷を負いて遠き道を行くが如し」というのも家康の言葉として有名だが、これも論語(泰伯 七)の「任重くして道遠ければなり」とよく似ている。

さて「由ら使む可し。知ら使む可からず」の方だが、孔子が意図したところは、私たちが日本史で習ったのとは違うようである。私たちが習った意味は、「民衆には法度について理解させたり納得させたりしてはいけない。ただ従わせるべきだ」というものだった。
孔子の言葉は上記のように、「従わせることはできても、理解させることはできない」だから、似ているようでかなり違うのである。

この違いが、中国語の「可」と日本語の「べし」の違いから来ているということは想像に難くない。
「可」「不可」は、英語で言えば “can”, “can not” であり、「できる」「できない」を意味する言葉だ。「不可」や “can not” は、物理的に「できない」という意味のほかに、道義的に「してはならない」という意味があるから、「べからず」と訳しても間違いではないのだが、「可」や “can” を「べし」(すべきだ)と訳すと意味がずれてくる。「できる」もしくは「やって良い」が正解だ。

家康は、わざと意味を変えて論語を引用したのだろうか。本当に間違えて理解していたのだろうか。あるいは、家康自身は正しく使っていたのに、家来たちが取り違えたのだろうか。
まあ、おそらくは、家康自身が自身の政策に合わせてわざと意味を変えて使ったのだろう。

孔子の発言は、「政策の意味をみんなに理解させるのは大変なんだよなあ」というぼやきと、「でも従わせることはできちゃったりするからおかしなもんだよなあ」という不思議さを表したものだったのだろう。

そういえば私も、なぜ所得税と消費税を両方払わなければならないのか、理屈は全くわからないが、ちゃんと両方払っている。孔子の言葉は、現代にも生きているのである。

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