なにわぶし論語論第43回 番外編「儒教は宗教か?」その1 

最近ホテル暴風雨の風木オーナーから、「儒教のどこが宗教なんだろう?」という、至極もっともなコメントをいただいた。
「なにわぶし論語論」の連載も今回で43回になるが、ちっとも宗教的な話は出てこない。少なくとも神話や宗教的な教えは出てこない。前回無理やり拾い出した「宗教的」な話も、孔子が信心深かったことを示すエピソードではあっても、儒教という思想、あるいは儒者の集団に宗教的な色彩があったことを示すものではない。
やはり儒教は宗教ではないのだろうか。

今回と次回は、いつもの論語本文の引用・解説はお休みして、儒教の宗教性について私なりに考えたことを述べてみたい。ただし、儒教が宗教であるのか宗教でないのかという、二者択一的な議論はしない。むしろ、儒教がどういった宗教的な性質をどの程度持っているのか、という考え方をしたい。

私は「なにわぶし論語論」を始める前に、当ホテルで宗教についてのエッセイを連載していた。その時に私が興味を惹かれたのは、世の中で宗教と呼ばれる思想、あるいは活動には、いくつかの特徴的な「機能」があるということである。
たとえば、人に自分の存在の永遠性を感じさせる機能。
神による復活、輪廻転生、祖霊崇拝による先祖・子孫との絆の確認などは、その宗教に参加する人に、自分や自分以外の人の存在の永遠性を実感させる。これを垂直方向(時間軸上)の自己の拡大というとすれば、今生きている他の信者との一体感を感じ、教団の中で、世界の中で意味のある存在として自分を捉えることは、水平方向(同時代的)の自己の拡大と言えるかもしれない。
その他、この世界で起こっている様々なことを因果的に説明し納得させる機能、自分の行動を決める上での規範となる倫理・道徳の基準を与える機能などがあると考えられる。
とはいえ、すべての宗教がこれらすべての機能を同じ程度に発揮しているわけではないようだ。たとえばキリスト教では道徳的機能が非常にはっきりしているが、神道では道徳的機能はそれほどで目立たない(ないわけではないが)。

儒教はどうだろうか。
まず、儒教といえば道徳である。仁、義、忠、恕といった徳目を、儒教はしつこいくらい繰り返し主張する。だが、道徳は宗教と無関係にも存在できる。道徳が必ず宗教的なものであるとすれば、小中学校の道徳の教科書は宗教の経典になってしまう。
では、宗教の道徳とそれ以外の道徳に何か違いはあるだろうか。これはひょっとすると私の偏見かも知れないが、宗教の道徳とは、絶対的な道徳であるとは言えないだろうか。人、少なくとも同時代に生きる人々とは別の誰か(神など)から与えられ、人(信者)が守らねばならない道徳である。
これに対し「民主的」な道徳は、他人に迷惑をかけない、他人を助ける、あるいは自分や他人の能力を発展させることを基本とする。あくまで人が基準なのである。

儒教はどうだろう。
儒教においては、人の守るべき倫理は「道」という言葉で表現されることが多い。そして道は「天」によって示される。論語でも孔子がしばしば「天」に言及しているが、儒教の四書のうちの一つ「中庸」の第1節は天の重要性を明確に示している。
「天の命ずるをこれ性という。性にしたがうをこれ道という。」
天の定めた各々の(正しい)性質に従うことが「道」なのだ。儒教では人に対する誠実さ、寛大さなどを教えるが、その根拠は、それが天の命ずる正しい道だからである。そういう意味で、儒教道徳は、民主的な道徳とは異なる、宗教的道徳といえる。
(つづく)

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