なにわぶし論語論第44回 番外編「儒教は宗教か?」その2

前回に続き、「儒教は宗教か?」問題について考える。いや、正確に言えば「儒教はどのくらい宗教か?」である。
前回は、宗教の持つ(らしい)いくつかの機能のうち、道徳の絶対的な基準を提供する機能を、儒教が十分に持っているということを述べた。では、他の機能はどうだろう。

私は宗教のある種の機能を「自己の垂直方向および水平方向への拡大」と呼んでいる。「垂直方向への拡大」というのは、要するに自己の一部(魂)が、死後も存在し続けるということを実感させることである。
ここで、「実感させる」というところが重要で、難解な理屈を並べて「死後の魂はある」と主張してもダメなのである。
日本の仏教では、やたらと先祖供養をおこなうが、あれももともとは単なるお布施集めの手段ではなく、死者の魂を大切に祭ることで、自分たちの魂も永遠であり、同様に死後丁重に扱われるという安心感を得るために重要だったのではないか。
キリスト教の教会で、宗教画やキリスト像、ステンドグラスに囲まれた荘厳な雰囲気の中で神父が神による復活を説いたりするのも、「死んでも魂は神様によって救ってもらえるのだ」という確信を信者に与えるのに有用だろう。

儒教の四書五経の一つ「礼記」(らいき)49編のうち、祖霊やその他の死者を祭る儀式の方法、意義などについて詳細に述べたものが3編ある。目次を見る限り、そのほかに喪中の礼儀や服装などを解説したものも少なくとも8編はあるようだ。したがって儒教においても本来は他の宗教と同様、死後の魂に関することが重要視されていたと思われる。
面白いのは、礼記の中ではそのような祭祀を扱う編が、租税などの政治制度の編、社交儀礼の編などと一緒に並べられていることである。世俗の礼と死者や神に対する礼を区別していなかったということだろうか?
なお、時代が下ると、祭祀などより世俗の儀礼や倫理についての教えの方が重視されるようになったようだ。特に日本では、すでに神道と仏教ががっちり魂の管轄権を押さえていたためか、儒教といえば、世俗の倫理についての教えと考えられるようになった。

次に、「自己の水平方向への拡大」すなわち自分の存在を同時代の人々と結びつけ、社会の中で自分の存在価値を見出す機能はどうだろう。
どの宗教でも、隣人愛や慈悲などが大切にされている。だが、とくに儒教では社会生活や政治の場で倫理(「天の道」)を実践することが非常に強調されている。世俗から離れた修行者というのは儒教には存在しない。必ず人間社会の中で人々と関わりながら倫理を実践し、社会の中で良き存在になることが求められている。

最後にもう一点。どうやってこの世界ができたか、人はどこから来たのか、死んだらどこへ行くのかなど、この世界についての人々の疑問に答えるというのも、多くの宗教が持っている重要な機能だが、儒教にはこの機能が欠如しているようだ。
儒教は天地の始まりや人類の誕生などについての疑問に答える神話を持っていない。死後の魂については、礼記の中で多少の説明があるようだが、他の宗教で見られるような、地獄極楽とか、黄泉の国に行って帰ってきた人の話などのドラマチックな物語はない。

こうして見てみると、儒教もけっこう宗教としての機能を持っている。ただし、世界を説明する神話はもともとないし、魂の永遠性を保証する機能は、時代とともに縮小してきたようだ。そういう意味では、倫理機能に偏った、かなり特殊な宗教と言って良いだろう。

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