エドガー・アラン・ポー 父よりも猫として

真剣に江戸川乱歩の気持になる実験

真剣に江戸川乱歩の気持になる実験

なぜ推理小説か

小説の中に「推理小説」という分類がある。

事件・犯罪が起こり(主に殺人)、その犯人や犯行方法を残された証拠から推理する話のことで、「名探偵」と呼ばれる推理の名人が登場し、犯罪を暴くことが多い。こうした小説を最初に書いたと言われるのはエドガー・アラン・ポーという人で、ゆえにポーは”The Father of the Detective Story”と呼ばれている。

つまり「探偵小説の父」である。

父というのは、人間など地球生物の一部がとる増殖の形態に必要な一役割のことで、他にもうひとつ「母」というのがあるのだが、ポーがなぜ「母」でなく「父」かというと、ポー自身が生物として、「父」になり得る種類の人間だったからなのだろう。だが、他にも理由があるのかもしれない。地球的表現は難しいのだ。

たとえばスウィフトという人は、ガリバーという人がヘンテコな国にばかり旅する話を書き、その中に”Necessity is the mother of invention.”「必要は発明の母」という言葉を残している。「必要」とはヘンテコな国のヘンテコな生物の名前ではなく、そのままの意味らしい。なぜ「必要」は父ではなく母なのか。こうした微妙なニュアンスがわかりにくいところだ。

さて、ポーが初めて書いたのは”Detective Story”で、日本という国でも、昔はこの種の小説は直訳の「探偵小説」と呼ばれたが、ある時を境に「推理小説」に変わる。

1946年、「当用漢字」というものが発表された。漢字というのは複雑でいかんから仮名などの表音文字のみにすべきだが、急に変えると混乱するので当面これらだけは使ってよし、という漢字が厳選されたのが、それだ。
その厳選メンバーに「探偵」の「偵」が入っていなかった。

「探てい小説」と書くのは見栄えがよろしくない。

じゃあ「推理小説」でどうだ?

ということのようだ。まさに必要は発明の母

その後漢字をやめる計画は中止され、今では探偵の「偵」も問題なく使用できるようだが、「推理小説」が定着している。今後「推り小説」などということになったら替わりにどんな言葉を発明するのかは引き続き観察したい。

探偵小説の父と猫のかかわり

最初の推理小説『モルグ街の殺人』であるが、私はこの作品、面白いが、率直に言って特に好きでも嫌いでもない。同じ作者の似た系統のものならば、『黄金虫』の方が、地球人類の暗号初歩の入門書としても興味深く、読んでいてわくわくする。

世界の虚構の歴史を紐解くと、ポー以前にも推理小説らしきものが見当たらなくもないし、『モルグ街』にはとある動物が登場し、その果たす役割ゆえ、現代の「推理小説」に期待される約束事からは、やや外れているとも言われるらしい。

だが「父」か否かという点より、ポーと「動物」との切り離せない縁を示唆する点でこの作品には意義があり、「動物」といえば、別の作品にポー最大の功績を私は見る。

『黒猫』という、『黄金虫』と同時期に書かれた短編小説がある。

かつて猫を殺した人間の話である。

この悪い人間が、猫を殺したことが遠因となって人を殺す。
しかしその罪を別の猫が暴く。
猫が名探偵の推理小説のような作品なのである。

私は猫が死ぬ小説を好まないが、ポーはどうだったのか

ポーは実はたいへんな猫好きで、“I wish I could write as mysterious as a cat.”「猫のようにミステリアスに書けたらと願う」という言葉を残している。

ポーはまた、最も恐れることほどありありと想像し、書きたくなるたちだったようだ。虚構研究にとって貴重な材料である。最も起こって欲しいことよりも、最も恐れることを書く、とは。

思うに、この小説は猫のようになるための実験だったのではないか。

『黒猫』の主人公が猫を殺した罪に苛まれるかのように殺人を犯し、最後は猫によって破滅するさまは恐ろしい。だが、このような虚構を生み出した作者の心を推し量れば更に輪をかけて恐ろしく、かつ興味深くはないか。

ポーの主体的な視点が人間の主人公にあるとすると、愛の対象である猫を殺すとは最も恐ろしい部類の想像だろうし、その猫に復讐されるのも恐ろしい。だが、視点が猫にもあったとすると、殺される恐怖、それだけでなく、ポーが極度に恐れたという「生きながら埋められる」という恐怖までもを書いたことになる。そして、ポーならばそう書いただろう。その方が恐ろしいことだからだ。

あくまでも「人間」である自分の書きたい主題を際立たせるために「猫」に視点を置くという虚構上の装置のありようは他にも多数の例があるが、この作品から立ち昇る妖気に似た恐怖はとても、そんなお手軽なものではない。地球人類らしい感情移入や擬人化はしないところも清々しく、ポーが作中の猫と共有可能なのは「最大の恐怖」のみだが、それこそがポーを「虚構創作」に結びつけて離さなかった縁である。読者を怖がらせたり最後にスッキリさせたりするためのただの「装置」とはとても思えぬ描き方だ。

やはりポーはこの作品で猫になったのに違いない。

この作品における「猫」の位置づけは、ポーと同じ地球人類である「主人公の妻」や、『モルグ街の殺人』に登場する「とある動物」とは天地ほど違う。「なる」というのはただごとではないが、ある種の地球人類が「なろうとする」情熱は種を超える。しかし種が違えばそれでいいわけでもないのだ。

猫になる。そして虚構の中で自分(猫)を殺す。真に猫になれていればいるほど苦しい道理だ。悪夢のような虚構の中、猫らしいやり方でよみがえり、猫を殺した自分(人間)に残酷な罰を下す。2匹目の猫は死なない。

非常にミステリアスである。

なぜそんな恐ろしいことばかり想像して書きたかったのかはよくわからず、そこもまたミステリアスとしか言いようがないが、ポーは私にとって、猫になろうとした先輩である。「小説の猫」と呼んでもよいとさえ思うほどだ。

もちろんこれは私にとって最大の賛辞なのである。

探偵小説は好きだが、その親であることがどれほどのことかは疑問である。なにせ、猫の親ならば猫であるゆえにすばらしいが、探偵小説の親は探偵小説ではないのだ。自分とは違うものを他に先駆けて生み出すのもいいが、自分とはまったく違うものに「なる」プロセスは、もはや順序になど意味がないほど面白いではないか。それが猫ならなおさらである。


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