魔 の 踏 切(3)

魔談 北野玲

 自殺女の左手の手首。それだけが見つからない。……その言葉のインパクト、その事件の奇怪さ、それがぼくを捕えて離さない。この件がどうしても頭から離れない。
 銭湯に向かって自転車を走らせているときも、そのことばかり考えていた。「いい加減にしろよ。この件がお前の人生にいったいなんの関係があるわけ?」と怒る自分のわきで「いやいやそう邪険にするものでもなかろう。この話には奇妙にひっかかる〈なにか〉がある。ひとつ追求してみるのも悪くない」とニヤついている自分がいる。
 魔の踏切が近づいてきた。
「どうかスンナリと通過させてくれ」
 しかし現実は、そうは問屋がおろさない。
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 カンカンカン……。
 やはりつかまった。遮断機の緩慢な動きは、ぼくの脆弱な神経をあざ笑うかのようだ。いかにも怠惰にゆっくりと、降りてきた。
「……いまいましい遮断機め」とぼくはつぶやいた。この棒はその役目の不徹底さを見せることで、我々を「魔のゾーン」に誘っているかのようだ。ユラユラと揺れる黄と黒のマダラ模様。その毒ヘビから、魔のささやきが聞こえてくるような気さえする。……どうぞどうぞ、強行したいのなら、やっちまっていいですよ。私はホラ御覧のとおり、じつに優柔不断な役回りです。向こう岸はすぐですよ。お急ぎですか。ひとつ賭けてみませんか?
 その女……もちろんぼくはその女のことなど、なにひとつ知らないのだが……この毒ヘビの魔のささやきに、つい同意してしまったのかもしれない。この毒ヘビさえくぐれば、その後数秒間の苦痛さえ耐えれば、なにもかも「無」の桃源郷に行ける。そう思ったのかもしれない。
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 ガーッ。
 ものすごい振動と轟音で、ハッと目が覚めた。踏切のカンカンカンという警笛も、接近する電車のファーンという警笛さえも、まったく気がついていなかった。ぼくは唐突に左手を確認したくなった。自転車のハンドルから左手を離し、手の平をじっと見た。
 においを感じた。目の前を通過する電車が巻き起こした風に乗ってきたにおいだった。6月に入り、この数日パッとしない曇天や小雨がつづいたせいか、そのにおい……鉄と油と土ボコリが混ざったようなその独特のにおいも、じっとりと湿っているように重く感じた。
 小学生時代、ぼくが最も嫌っている踏切が、通学路近くにあった。ぼくはその踏切に立ち、手の平に乗せた小さな磁石をじっと見つめていたことがある。確かチョコレートのおまけでたまたま手に入れた磁石だったように思うが、よくは覚えていない。……とにかくその小さな磁石は電車の接近と共に、まるでなにか魔法の力でも加えられたように、クルクルと回転し始めた。電車が遠ざかってゆくと、次第にその回転速度は弱まってゆき、やがて何事もなかったかのように、以前と同じ方向を示して静止した。
 その当時、ぼくはその不可解な磁石の回転を見るのが好きだった。踏切は嫌いだったが、そこでしか見られない奇妙なできごとは好きだった。その踏切に潜んでいる「なにか」は嫌いだったが、そこでしか感じられない独特の奇妙なにおいは好きだった。
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 遮断機は上がった。ぼくは特になんの感慨もなく上がってゆく毒ヘビを視線で追い、線路脇に生えている木に、ふと目を止めた。その瞬間に異様な戦慄を感じた。あわてて視線をそらし、急いで自転車を発進させた。一瞬で背骨が凍てついてしまったような気分だった。
(つづく)