悪魔談(2)

悪魔談2

悪魔は我々を誘惑しない。彼を誘惑するのは我々である。
(ジョージ・エリオット)
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カトリック教徒を両親に持つひとり娘が、密かに悪魔を奉じなにやら奇妙な儀式を行っている。「皮肉な図だよな」と思うと同時に、しかしこの図は「両親が敬虔なカトリック教徒」という環境だからこそ、起こりえた図式だと言える。
なにかの小説で「キリスト教最大の功績は、悪魔を創造したことである」という極めてシニカルな一文を読んで笑ったことがある。しかしここまで痛烈に罵倒しなくとも、「光は必然的に闇を必要とする」という論は確かに正しいように思う。光がその輝きを示すためには、暗黒がなくては話にならない。暗黒面に転落する人物がいなければ、「スターウォーズ」にはなんの魅力もない。
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この「悪魔談」開始にあたり、このところぼくはこの時代、ローティーン時代のスケッチブックや日記をひっぱり出してきて開くことが多くなった。自分でも面白い心理だと思うのだが、こういうものは日中には開く気がしない。だれに見せるわけでもなく自分ひとりで開くのだが、それでも心のどこかに「恥ずかしい」という気持ちがある。
そこで夜を待ち、酒の力を借りる。夕食も済ませ500ccの缶ビールを空にして少々酔いが回ってきた頃、「……さて」といった気分でいそいそとバーボンのボトルを出してくる。「……ではちょっと開いてみるか」という気分にようやく至る。部屋の照明も蛍光灯ではなく白熱電球に切り替えてムードを出し、琥珀色に輝くグラスを片手に、45年前の自分の痕跡を見たり読んだりする。じつに面白い。興がつきない。ちょっとした発見もあった。
「あいつが悪魔崇拝に走ったのは、結局のところ両親のせいだ」
日記帳の欄外に記された走り書き。これを記した記憶は全くない。しかし14歳の自分が記したブルーブラックの文字、その万年筆特有の滲みをじっと見つめていると、その時代にこよなく愛用していたパーカーの万年筆をありありと思い出した。彼女のことを指して「あいつ」と表現力するあたり、反感、愛情、畏怖、憧憬……じつに様々な感情がこの呼称の裏に錯綜している。当時の混乱がかすかに断片的によみがえったような気がして、ますますバーボンが進むひとときとなる。
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「普通の家がうらやましい」とルシファンが言ったことがある。
彼女は自分を「ルシファン」と呼んでほしいと言った。ただしそれは「ふたりだけの時に」という条件だった。ぼくは頷いて了解した。すると彼女は「呼んで。いますぐ呼んで」と要求してきた。我々は学校から15分ほど歩いたところにある工場の脇を通過しつつあった。灰色で単調なコンクリート塀に添ってしばらく歩くと、突然に視界が開けた。雑草が生い茂った原っぱの向こうに、線路が見えた。彼女の家はその踏切の向こう側にあった。
ぼくは当惑した。彼女をルシファンと呼ぶことにつき特に異論はなかった。「……まあ、そう呼んでほしいなら」という軽い気持ちで同意したのだ。当惑したのは、同意した次の瞬間に早速それを要求してきたことだった。

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彼女にはそうした傾向があった。1枚のカードをぼくに見せる。そこには希望とか願いとかが書いてある。ぼくがそれを見て同意する。するとさっと次のカードが出てくる。さらなる希望とか要求とかが書いてある。その内容がどうこうと言うよりも、その矢継ぎ早の行為、ぼくの同意をあたかも当然として即座に次に進むかのような行為が、ぼくをとまどわせた。「この女はたぶん第三、第四のカードも隠し持っているに違いない」と警戒せざるをえなかった。
「まあ、そのうちに」とぼくは言った。「……いますぐに呼ぶ気にはなれない」
すると彼女は豹変した。思いきりアカンベーをして走り出し、長い黒髪をなびかせて踏切を渡り、踏切の向こうでもう一度アカンベーをした。この時、もしぼくが彼女を追いかけて踏切を渡っていたら、「ルシファン!」とひと声彼女にかけていたら、我々の関係はさらに一気に進展しただろう。しかしぼくは踏切を渡らなかった。その踏切は小さい時から「嫌いな場所」であり、ぼくの注意はその方向に向いていた。ぼくは踏切の向こうでまだこちらを見ている彼女の視線を十分に意識しつつ、そのまま無言で踏切に背を向けて帰った。
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結果としてその後も「ルシファン」と呼んで彼女を振り向かせたことは、ただの一度もなかった。呼ぶ機会がなかったわけではない。呼ぶ機会はいくらでもあった。でもぼくは呼ばなかった。彼女の願いに抗ったわけではない。「なんとなく」「そのうちに」と先送りにしているあいだに、呼ぶ機会はとうとう一度もなかった。
人生には数えきれないぐらいの後悔が残る。ぼくのこのはっきりしない態度が、その後の彼女の男性不信へと繋がっていったのかもしれない。彼女はぼくに好意を抱き、ぼくだけに悪魔崇拝の魅力を細切れにして示そうとしたが、ぼくはその断片を片っ端から無視した。あるいは「ルシファン」エピソードのように、同意しておきながらまったく実行しなかった。そのため彼女の当初の勢いは徐々に後退し、微妙に無気力になってしまったような気がする。彼女の人生にとっては、まさにぼくこそが悪魔だったのかもしれない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・( つづく )