悪魔談(7)

悪魔談7
酒と美しい娘は二本の魔の糸。経験を積んだ鳥でもこれにはまんまと引っかかる。
(リュッケルト)
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中学校に着いたが、当然ながら正門は閉まっていた。しかしすぐ脇に小門があり、鍵はかかっていなかった。我々は中に入った。入ったものの、自分の母校ではなく初めて来た中学校である。どの建物に宿直室があるのか、それさえわからない。暗闇迫る中、次第にシルエットと化しつつある周囲の建物を半ば呆然と眺めていると、「こっちよ」と言ってルシファンはすたすたと歩き始めた。まったく迷いがない。ぼくは驚いた。
「なんでわかる?」
「人の気配がする」
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彼女の会話や説明に「気配」という言葉はしばしば登場した。「悪い気配」「いやな気配」などなど。そしてぼくはその言葉を耳にするたびに、それ以上の追求を放棄した。彼女は明らかにそうしたものを感じており、ぼくには全く感じることができなかった。理解できるはずがない。努力してどうにかなる問題ではない。ぼくは素直に従った。
事実、鉄筋コンクリート3階建ての大きな校舎に向かい、すぐ傍に茂っていた堂々たる背の高い木と校舎の間の隙間をくぐるようにして行くと、校舎の背後に、普通の民家のような小さな平屋があった。ぼくの中学校にはない光景であり、ちょっと驚いた。玄関脇には鉢植えも並んでおり、窓からはだいだい色の光が漏れている。ぼくは舌を巻いた。
彼女はずんずん近づいて行き、戸口の前に立った。ぼくもすぐに追いついて戸口を見たが、呼び鈴らしきものはなにもない。ノックでもするべきかと思ったが、そのときにはもう、彼女は戸口を開けてさっさと中に入っていた。
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その教師は、とても教師とは思えない風体だった。ランニングシャツ、ステテコ、ラクダの腹巻。当時の「帰宅亭主定番の出で立ち」で酒をやりつつテレビを見ていた。まだ日が暮れて間もない時間だというのに、丸いチャブ台の脇には日本酒の一升瓶がドンと置かれ、台の上にはチクワやシャケ缶などのツマミが乱雑に乗っていた。

60歳となったいま、この時点での彼よりも年上になったぼくは、宿直室でこの光景を見たとしても、笑って許すことができる。しかし当時、14歳男子の目から見たこの光景は、嫌悪以外のなにものでもなかった。「なんだこの先生は」と思った。
一方その教師からしてみれば、我々は全く想定外の珍客だったのだろう。開いた口がふさがらないといった表情でルシファンの洋装を見ていたが、続いて入ってきたぼくから事情を聞き、シューマイの赤い箱を受け取ると、たちまち上機嫌になった。しきりにぼくの父を褒め称えた。「いまどき珍しい信念を持った教育者で」とか「しかもすばらしい芸術家であられる」とか、具体的な像に一向に結びつかないような薄っぺらな褒め言葉ばかりだった。要するにあまりよくは知らないのだろう。……当時、やたら来客の多かった家庭に育ったぼくの目からすれば、父に心から心酔している愛弟子関係と、そうでもない社交辞令関係の見分け方ぐらい、朝飯前だった。しかもこの先生ときたら、すでにほろ酔い状態でロレツが回っていない。
あきれたぼくは「これにて任務完了」気分になった。長居無用。そのまま「回れ右」でとっとと帰ろうとした。すると彼はあせった声を発した。
「君たちは本校生徒か?」
この質問を「くどいな」と思うほどに繰り返し、どうやら「本校生徒ではない」と判明すると、今度はだらしないほどのニヤニヤ笑いでルシファンをジロジロと見始めた。いやな雰囲気だった。「知らないというのは、どうしようもないな」とぼくは思った。「この西洋人形のようなかわいい娘の本性を知ったら、この酔っぱらい先生など、裸足で逃げ出すかも」
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「お嬢さん、ちょっと休んでいかないか?」
彼はふとぼくを見た。
「そうそう」
ひとりで頷きながら立ち上がり、回覧板のようなものを持って来た。日本酒臭い口臭を我慢しながら聞いた説明はこうだった。……じつは今夜、自分には宿直としてのお勤めがある。ここに一覧表として並んでいる3棟の校舎の全部の教室とトイレを残らず見て、「◯」(異常なし)を記入しなければならない。ところがこの蒸し暑さでどうにも我慢できず、御覧のとおり早々に飲み始めてしまった。ついてはこの仕事をやってもらえないだろうか。本当は午後10時に開始する決まりなんだが、なあに、いま君がさっさとやってしまえば30分ほどで完了するだろう。戻ってきたら、謝礼として1000円をわたす。どうだろう?
もちろんこれはぼくを追っ払って彼女とふたりきりになるための作戦であり、それぐらいのことはすぐに察しがついた。ますます「イヤな先生だな」と思ったぼくは即座に断ろうとした。するとルシファンが大きな声を出した。
「ステキ!……行ってきます!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(つづく)