悪魔談(10)

悪魔談10-2

恐怖克服の最善の方法は、その対象と関わってみることである。
(ジョセフ・マーフィー)
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「一難去ってまた一難」という言葉がある。
「一恐怖去ってまた一恐怖」というリアルお化け屋敷状況に置かれたとしよう。人はそうした連続恐怖にいくらかは慣れるだろうか。人によるのかもしれないが、ぼくにはそれはなかった。つまり慣れるということはなく、恐怖は常に新鮮だった。
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階段の途中の踊り場で、ぼくは立ちつくした。背骨が凍りついたような気分だった。ルシファンはぼくのすぐ脇を見ていた。いままでもたびたびそうした事態は経験してきた。彼女にとってそれは決して珍しい接近遭遇ではなく、むしろ日常的に「よくあること」に近かった。一方ぼくはこれまでの経験で、彼女が見ているものは、自分にはどうしたって見えないことがわかっている。ふりかえっても、周囲を見回しても、ぼくにはなにひとつ具体的なもの、「ああこれがそうなのか」と納得がいく手応えのあるものを見ることができない。ぼくの周囲には、あらゆる魔が無限に連鎖しているような暗闇だけが広がっていた。しかもその暗闇にはいままさに、確実に、なにかがいるのだ。彼女の様子がそれを物語っていた。

これほどの恐怖は、かつてなかった。奥歯にぐっと力をこめて恐怖に耐えつつ、彼女の表情を凝視した。ぼくのすぐ脇になにがいるのか、そいつは我々になにをしようとしているのか、なにかほんの少しでもいい、言葉にしてほしかった。しかし結局、それはなかった。彼女は一言も発せずぼくの手をとった。まるで「さっさと行きましょう。そんなヤツ、ほっときましょう」と言わんばかりだった。その指は細く、死人のように冷たかった。ぼくの指は汗ばんでいた。彼女の指と接することで、自分の指の体温を感じた。妙な話だが「そこにいるヤツは、ぼくの体温がうらやましいだろうか」と思った。なんでそんなことを唐突に思ったのか、よくわからない。
ぼくは黙ってルシファンに従った。「なにがいた?」と聞くことはしなかった。聞いたところでなにも見ることはできないという諦めがあり、また震えた声を発しはしまいかと怖れていた。彼女に対して見栄を張るつもりはさらさらないというか、そんなものはとうの昔に捨て去っていたが、しかし14歳男子のプライドが、かすかに残っていた。手を引かれて階段を登りつつ、一度だけ踊り場をふりかえった。淀んだような暗闇が広がっているだけだった。そこには大きなカガミがあるはずだったが、完全に闇に溶けこんでいた。
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この「踊り場にはなにがいたのか」問題は、じつはその夜から数日が経過し、ぼくはルシファンに聞いている。やはり知りたかったのだ。どうしても気になったのだ。しかし明確な答えはなかった。「なにがいたのかわからない。……でもなにかがいた」という曖昧な返事だった。ぼくはそれ以上追求はしなかった。

しかしこの件について言えば、ぼくはその返事に納得していない。彼女はなにかを隠していた。今でもそう思っている。……というのも、その瞬間の彼女を、ぼくは凝視していた。それは「なにがいるのかわからない」といった苛立ちの表情ではなかった。明らかになにか具体的なものを目の当たりにして、驚愕している表情だった。いったい彼女はそのときなにを見ていたのだろう。なぜ話してくれなかったのだろう。いまとなってはもう、永遠の謎になってしまった。ぼくはもっとしつこく聞くべきだったのだ。「しばらく間を置いてまた聞いてみよう」などという悠長な作戦は、結局その後に自然消滅してしまった。残念、というよりもむしろなにかもったいないような気がしてならない。わざわざ映画館に行って、すごくいいシーンを見逃してしまったような気分だ。人生に後悔はつきない。
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校舎2階に「異常あり」はなかった。いまとなっては「残念ながら」という表現にしたいぐらいだ。しかしこのときのぼくにとっては「異常なし」という声が暗闇に響くたびに、フゥッとため息を漏らしたいような気分だった。音楽室に勝るとも劣らない恐怖ムード満載の理科室も、美術室も、あっけなく「異常なし」だった。
登った階段は、再び降りなければならない。2階から踊り場に向かって降りるとき、ルシファンはなぜかカガミだけに光を当てていた。我々は無言で、足早にそこを通過した。彼女はぼくの前を歩いていたので、その表情を見ることはできなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(つづく)