魔の病室(3/最終回)

…………………魔の病室3

「だれもいない部屋があるでしょ」
ぼくはその部屋のナンバーを言った。
「あそこに移してもらうことって、できないの?」
もちろん病院食配膳のおばさんにそんな相談をしたところで、どうにもならないことは十分に承知していた。しかし当時のぼくにとって、この病院で仕事しているスタッフの中で最も庶民的な親しみを感じるというか、お医者でも看護婦でもない「ちょっと場違い的普通のおばさんスタッフ」が、この配膳おばさんだった。なにを聞いても包み隠さず、ちゃんと答えてくれた。そして病院内のことには精通している。看護婦どおしの対立関係から、入院患者の性格まで知っている。
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反応ありだった。おばさんは目を丸くした。もう一度部屋のナンバーを聞き、チラッと周囲に視線を走らせ、ぼくのベッドのサイドテーブルに夕食の膳を乗せながら言った。
「この病院でつい最近、亡くなった人がいてねぇ。……いい人だったんだけどね」
「でもいまはもういないんでしょ」
「そう」
「だったらその部屋、使わないともったいないよね」
おばさんは軽く笑った。
「そうじゃないの。……まああとで、話してあげるわ」
「いつ?」
「お食事を全部、配ったらね」
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ぼくは目の前の夕食をおとなしく食べた。なにしろ量が少ない。全部平らげてしまうまで、15分もかからなかった。しばらくしておばさんが来て、ぼくに手招きをした。我々は廊下に出て、突き当たりまで行った。そこにはちょっと古風な書棚があり、入院患者は自由に出し入れできる本が20冊ほど並んでいた。書棚の脇には1mほどの観葉植物もあり、ソファーもあった。
ぼくはその古いソファーに座るのが好きだった。記憶とは妙なもので、入院ベッドよりも、そのソファーの形状とか痛み具合とかをよく覚えている。ぼくは図書コーナーまで行くとさっさとソファーに座ったが、おばさんは座らなかった。ちょっと奇妙な仕草をした。書棚から1冊の本を取り出した。パラパラッとめくり、そこにある文字列を1行ずつ指でなぞるような仕草をしながら話をした。どうしてそんな仕草をしたのか、いまでもよくわからない。一種のカモフラージュだったのかもしれない。しかしイメージとしては、とてもそんなことをするような人ではなかった。
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「……病院で死ぬとね」とおばさんは言った。ときどき自分のベッドに戻ってきてしまう人がいるという。看護婦さんにとっては珍しい光景ではなく、「Aさん、またベッドに座ってたよ」なんて会話も日常的にあるらしい。
「ふーん」とぼくは言った。ゾクゾクするほど怖かったが、もっとつづきが知りたかった。
「それで?……そのベッドはどうするの?」
「移動するの」とおばさんは言った。その瞬間にぼくは察知した。
「……あの部屋に?」
おばさんは無言で頷いた。
「いよいよ最後が近づいたらね、ベッドと一緒にあの部屋に移動してもらうのよ」
ぼくはその部屋の「役割」を知った瞬間に、言葉を失った。ただ呆然とおばさんの横顔を見つめた。ゆっくりとした仕草でパタンと本は閉じられ、元の場所に返却された。ほんの一瞬ぼくを見て微笑し、そのまま廊下を遠ざかっていった。
……………………………………………(魔の病室・完)