魔の貸家(3/最終回)

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以下は、墓場の暗闇で聞いた話である。結局、名前を聞くこともしなかったので、「彼女」とする。
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彼女は戻ってきた。しかし墓場まで戻って来て、懐中電灯を持って来なかったことに気がついた。駐車した車の方向をちらっと振り返ったが、車内にも懐中電灯は置いてなかった。自分の不注意が嫌になったが、そのとき彼の声が聞こえたような気がした。
「おいおい。ホタルを懐中電灯で照らすヤツがいるか」
なつかしい声だった。以前の光景が蘇った。彼が連れていってくれた川辺は想像以上に暗く、彼女は何度も河原の石にけつまずきそうになった。転倒しそうで怖かったので、彼から受けとった懐中電灯のスイッチを入れた。……彼は大丈夫だろうか。先を行く彼を見ると、どんどん歩いていく。振り返りもしない。ちょっと恨めしい気分になったが、それにしても懐中電灯なしでよくあんなふうに平気でどんどん歩けるものだと感心した。なんとか追いついた時に、彼の声がした。
「ほら、そこ!」
彼女は半ば無意識にその方向に懐中電灯の光を向け、彼に笑われた。
「おいおい。ホタルを懐中電灯で照らすヤツがいるか」
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ホタルをこよなく愛した人だった。彼が少年だったころ、自宅近くの小川には多くのホタルが飛び交っていた。川をきれいにして、ホタルの幼虫が住めるような川に戻したい。彼は町内に呼びかけたが、応じる人はいなかった。
「……でも1匹でも飛ぶようになれば、話題になる。協力してくれる人がきっと出てくる」
彼の孤独な戦いには同情したが、彼女はあらゆる虫が苦手だった。ホタルの光もテレビで見たことがあり、それで十分だった。自分の目で見たいとは思わなかった。
「……もっと手伝ってあげればよかった、と」

慰めようにも、なんと言えばいいのか、わからなかった。ぼくはただ暗闇に立ち、彼女の話を黙って聞いていた。相槌を打てるような話ではなかった。彼女の涙声はとぎれとぎれで、よく聞きとれない部分もあった。落ち着いた声の物静かな女性で、歳はたぶん40あたりだろうと思うのだが……もしかしたらぼくを痴漢か強盗と見て、これこれこういう理由でひっそりと墓場に来たのだから、どうかなにもせず見逃してほしい……ということだったのかもしれない。
彼はどうなったのだろう。その川にホタルは戻ったのだろうか。……たぶん、としか言いようがないのだが、彼は亡き人となり、ホタルは戻らなかったのだろう。彼女は話の途中で、いよいよ辛くなったのかもしれない。「……ごめんなさい」と言い残して、その場を去った。ぼくは最後に「お気をつけて」と声をかけた。足音が遠ざかり、やがて消え、しばらくしてバタンと車のドアが閉まる音がした。エンジンの音がして、それも遠ざかっていった。
「さて」
ぼくはわざと声を出してみた。戻ろうと思って視線を転じたとき、視界の端をスイッと走った小さな光。まちがいなく蛍の光だった。
……………………………………………( 魔の貸家・完 )