魔の階(2)

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下降するエレベーターの中で背後の壁にもたれ、目眩で転倒しないように目を閉じた。それまでの経験で、目眩を起こした時はとにかく焦らず、動かず、その場で目を閉じて安静を保ち、「魔のぐらつき」が通り過ぎるのをじっと待つ。それが自分にとって一番有効な方法だと知っていた。下降速度にブレーキがかかるのを感じた。エレベーターはなんの音もせず静かに停止した。
「さすがに高層ビルのエレベーターは違うな。じつに静かだな」と思いつつ目を開けて、アタッシュケースの握りをしっかりとつかんだ。なんとか大丈夫そうだ。転倒を回避できて、神に感謝したい気分だった。
「ポーン」と軽やかな電子音がしてドアがスルーッと開いた。ぼくは右手でアタッシュケースを下げ、左手の指を軽くネクタイの結び目にひっかけながら考えていた。いますぐにこの暑苦しいネクタイをほどいてしまいたい。しかしその前に会社に電話して、上司Tがまだ会社にいるかどうか確認した方がよさそうだ。腕時計を見ると、時刻は午後10時を回っていた。上司Tがまだ会社にいるかどうかの確率は、半々というところか。
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数歩進んでエレベーターから外に出て、某然と立ちすくんだ。いきなり異世界に降り立ってしまったようなショックだった。そこは明るい照明が降り注ぐ見慣れた1階のロビーではなかった。照明はまったくなく、ガランとした広大な灰色の空間には、ブラインドもカーテンもないむき出しの巨大な窓ガラスが整然と並んでいた。
一瞬のあいだ混乱してしまったが、数秒間立ちすくんで周囲を眺め、やっと状況が理解できた。ぼくはブランクの階に来てしまったのだ。テナント不在の階に来てしまったのだ。倒産か、あるいは移転だろうか。それにしても、このコンクリートむき出しの、じつに殺伐とした暗黒空間はどうだ。こんな異様な空間が、きらびやかな新宿高層ビル群の中に潜んでいるというのか。
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背後のドアが閉まる音がして、ハッと現実的な感覚に戻った。ふりかえってみると、ドアは閉まったが、エレベーターはまだこの階にとどまっていた。ふと不安が走り、ボタンを押してみた。ドアは再びスルーッと開き、やれやれと安堵した。大丈夫だ。ボタンはちゃんと機能している。なぜこの階で止まってしまったのだろう。理由は不明だが、そのときは深く考えなかった。
すぐにエレベーターに引き返して1階のボタンを押せば、もうこの珍事はたちまち過去のものとなり、泡沫のように記憶からも消えてしまうのだろう。ぼくはたちまち現実世界の渦中に舞い戻り、上司Tがすでに帰宅したことを祈りながら1階の公衆電話から会社に電話するのだろう。……そんなことを漠然と考えながら、ぼくはエレベーターの明るい空間を眺めたまま乗らなかった。しばらくしてドアは閉まり、エレベーターは上に移動していった。
……………………………………………( つづく )