魔の階(3)

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「忙しくて……」と人は当たり前のように言う。ぼくもそうだ。様々な状況でついそう言ってしまう。現代人にとって最も日常的な馴染み深い漢字、それは「忙」かもしれない。しかし改めてこの漢字をよくよく眺めてみると「心、亡ぶ」と警告している。「忙」は心から潤いを奪ってゆく。「多忙」になると、潤いはどんどん枯れてゆく。やがて乾燥し荒廃した心に、無数の亀裂が走る。心はヒビが入ってボロボロになった土器のように、崩壊に向かって突き進む。その先になにがあるのだろう。怖いのは、心が亡ぶことではない。心が亡んでいるにも関わらず、それと気づかず生活している人間が多勢いる。それが怖い。
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その時のぼくはまさにその瀬戸際に立っていたのかもしれない。まだ異常を異常と捉える判断能力はかろうじて残っていた。その故に現実逃避の気持ちが強かった。さっさと元の世界に戻ることをためらった。エレベーターはぼくを待ち構えているようにして口を開け、燦然と輝いた小箱のような部屋を見せていた。無言で辛抱強く待機しているように見えたが、そのじつ電子制御された小箱の裏側では、大した理由もなく現実世界に戻ろうとしない男に対しひそやかに嘲笑しているように感じた。「好きなだけ笑うがいいさ」とぼくは思い、そう思った瞬間にドアは閉まった。さっさとぼくを見捨てて上の階に登っていった。
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特になにをするというわけでもなく、ぼくはただそこに立って次々に輝く数字を眺めていた。その数字はぼくが先ほど乗った階の数字を素通りし、さらに上に登っていった。やれやれよかった。輝く数字を見て安堵した。クライアントの階でエレベーターが停止することを、ぼくは恐れていた。今しがた打ち合わせをしていた取引先の部長が降りてきて、ぼくと同じようにこの階で止められ……なんてことになったらもう最悪だ。この部長の場合、「なにか気の利いたジョークのひとつも言えば、笑って不問にしてくれる」といった打開策の可能性はゼロに近い。ともあれエレベーターのボタンが押されたのは、クライアントの階ではなかった。エレベーターはその階を素通りして数階上に登り、停止した。
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アタッシュケースをその場に置いた。右手をアタッシュケースの重みから解放させ、リラックスしたい気分だった。ネクタイを少しゆるめ、両手をズボンのポケットに突っ込んだポーズで、窓際までゆっくりと歩いた。小さな砂が床に散らばっているのだろうか。ジャリッと砂を踏むような足音が室内に反響した。
室内が暗いせいか、高層ビル群の夜景はちょっとしたものだった。すぐ目の前に立っている高層ビルの中では、アリよりもさらに小さな人間たちがデスクワークしていたり、あちこち移動したりしていた。ブラインドが下ろされている階も多かったが、9割以上の階でまだ照明がついていた。時々中で動く人間のシルエットがぼうっとブラインドに映りこんだりしていた。壮観ではあったが、それは心和む光景ではなかった。
意味のないことだと知りつつ、ぼくは誰かひとりでもこっちのビルを眺めている者はいないかと探してみた。ひとりもいなかった。「仮にいたとしても」とぼくは思った。「ぼくを見つけることはまずできない」
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ただひとり暗闇の階の窓際に立ち、目の前の高層ビルの光り輝く階にひしめく人間たちをじっと眺めていた。奇妙な感覚だった。幽霊になったら、こんな感覚なのかもしれない。ぼくは仔細に人間の行動を見ていることができる。しかしだれもぼくの存在に気がつかない。そんなことを考えながら、しばらく夜景を楽しんだ。もう帰らなくちゃ。1階まで降りて、会社に電話しなきゃ。……そう思いつつ、なかなかそれができなかった。なにか暗示めいたものを確かに感じるのだが、それがいったいなんの暗示なのか、もう少しで悟るような気がするのだが、それがいつ来るのか……そんな気分だった。ぼくはその場から動きたくなかった。
…………………………………(つづく/次回最終回)