魔の虫(1)

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魔の虫、と聞いてあなたはどんな虫を連想するだろうか。ゴキブリだろうか。
確かにこの虫ほど主婦から徹底的に嫌われている虫も珍しい。友人の奥さんは桐谷美玲系のじつにかわいらしい童顔で、確かアラフォーのはずだが、見た目は高校生かと思うぐらいだ。その奥さんでさえ台所の隅でこの虫を発見したときは、「ただちに殺す。執行猶予なし」という誠にサディスティックな殺人鬼、ではなく殺虫鬼へと変貌する。旦那である友人はじつに温厚な私立高校美術教師なので、この虫を発見すると、とにかく逃げる。いや目視以前に、この虫の出現を察知しただけで現場から逃走する。目の前のかわいい系奥さんが床を見て「あぁっ!」と言っただけでもう台所から消えている。
逃げてどうするのか。どうもしない。トイレとか自分の部屋に立てこもってこの虫がどっかに行ってしまうのをじっと待つのだ。驚くというか呆れるというか、究極の無抵抗平和主義者だというか、世の中には本当に色々な男がいる。よくこんな男がこんなかわいらしい奥さんをGETできたものだとつくづく不思議に思うが、まあその謎はさておき、一方のかわいい系奥さんは、すでに第一級殺虫鬼へと変貌している。対ゴキブリ殺虫剤を取りに走り、たった1匹のゴキブリを駆除するだけのためにあろうことか1本の殺虫剤(500ccの缶ビールぐらいの大きさはある)を丸ごと使い切るぐらいの勢いで噴射しまくる。なんだかもう、台所全体が殺虫剤のモウモウたる煙幕で窒息しそうになる勢いだ。
「……これでもう、ヤツはどっかその辺でくたばっているはず!」と奥さんは童顔の頰を紅潮させて高らかに勝利宣言する。それに異存はないが、このぼくも呼吸困難でくたばってしまいそうだ。たまたま客として夕食に呼ばれていたぼくは、無言で目の前の料理を眺める。ステーキにもワインにもボルシチにも、部屋にもうもうと立ち込めた殺虫剤がうっすらとかぶさっているような気がする。……なんてことが、かつてあった。
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さてかようにゴキブリは嫌われているが、「魔」の一字を冠するほどの虫ではないような気がする。ゴキブリは映画「逃亡者」のように生存をかけてただ必死で逃げているだけだ。「魔」の一字を冠するほどの虫とは、その精神、その行動になにか邪悪なものが含まれているほどの存在でなくてはならない。そんな虫などいるか、と思うのが大人の悲しさである。このぼくにしてもそのような虫がいるとはいまでは半ば信じていない。しかしかつて、少年時代にそれはいた。ぼくの周囲の少年たちはみなマジに真剣に怖がっていた。名前がまた凄まじい。チンポキリ。今回はその思い出話をしたい。
………………………………………………( つづく )

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