魔の冬山(2)

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様々な旅行の楽しみ方があると思うが、「旅行は日常生活の強制的な中断」とする考え方がある。この目的を念頭におく人は、日常生活の雑多な瑣末事やストレスから開放されるひとときを求めて旅に出る。ぼくはその傾向が強い。山に登りたいと欲する時は、特にその傾向が強い。なので単独で行く。

単独行ほど気楽な登山はない。気を使うべき同行人がだれもいないという登山は、なにもかもが自分ひとりで完結する。ピークに達し眼下に広がる雄大な景観に感動したときも、行手の悪天候を察知し即座にUターンすべきかどうか迷ったときも、なにか得体のしれない恐怖を感じ前方の森を迂回しようと決意したときも、すべて「自分」という小宇宙の判断のみで情報処理が完結する。雄大な景観や様々な体験は、小宇宙を豊かにする。Uターンや迂回といった行動は小宇宙を温存させるために迅速に決定され、小宇宙を鍛錬する。そう思っている。

しかしまた単独行ほど危険な登山はない。それは重々承知している。「そもそも登山自体が、日常生活にはない危険性をはらんでいる」と言ってしまえばそれまでなのだが、「いま自分は危険な行動をしている真っ最中である」という不断の警戒心こそが、もっとも有効であると信じている。穂高山中で人と出会った時も大抵は「おひとりですか?」と驚かれるが、逆に「この人たちは大丈夫か?」と疑うような御婦人グループと出会ったことがある。「いやいや第一印象であなどってはいけない。この中のおひとりが、熟練の登山愛好家かもしれない」と自分を戒めたのだが、聞けばその案内人が風邪をひいてしまったから、3人で来たのだという。「案内人にその話をしたのか?」と聞くと、「していない」と言って笑っている。ぼくは彼女たちの装備を見た。靴に注視し、腕時計で時刻を確認し、太陽の位置と稜線に視線を走らせ、そして言った。「いまから北穂に登るというのですか。自殺行為ですよ」
穂高とは、そういうところである。

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さて「前回の話にはもうつづきはないのか?」といまあなたは思っているかもしれない。じつはある。じつはあるのだが、あまり気分の良い話ではなく少々後味の悪い話のような気がしてきたので、ここまで書きつつ「やめておこうか」という結論に接近しつつあった。しかしやはり書いてしまおうと思う。

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「もう雪の下だね。氷漬けだよ」
3人の男たちとぼくは「そのあたり」を注視した。しばし無言の時間が流れ、高山の唸りのような風の音だけが、我々の眼下から低く高く響いてきた。
「あそこはヤバイな。ヘリで接近もできん」と指差した男。
「どうする?」
「どうにもならん。……春になって、雪が溶けるまでどうにもならん」
「……となると、半年先ぐらいか」
「まあそうだな。来年の……5月だな」
「雪が溶けたら……出てくるのか?」
「それもわからん」

男たちがボソボソと会話する声を聞きながら、ぼくは遺族のことを思った。単独行の魅力は捨てがたい。しかし「死体発見を半年間も待たせるのか」という背筋が凍りつくような想い、その時に眺めた谷底の「白」は今でもよく覚えている。
……………………………………………( つづく )

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