魔の冬山(3/最終回)

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「森林限界」という言葉がある。気候や緯度によりその高度は異なるが、ぼくが四季を通じて徘徊してきた穂高では、標高2500mあたりがそうだ。
「ここいらがそうだな」
そう思いつつさらに登ってゆくと、風景は一変する。なにしろそのボーダーより上に樹木は存在できない。低木や草しか生育できない岩石の山となる。視界を遮ってきた樹木はすべて途絶え、広大無辺の空間が突如として眼下に広がる。この瞬間の圧倒的なスケール、神の領域、息を飲む景観……いかなる賛辞をもってきても、到底表現できるものではない。なにかに打たれたように遥か地平まで続く山脈を眺める。あるいはじつに悠々たる微速で移動してゆく雲海や雲を眺める。冬であればいよいよ撤退しないと凍傷の危険を感じるまで、夏であれば何時間でも心ゆくまで眺める。そこに自分が存在しただ眺めているという状況を、あたかも千載一遇の奇跡のように神に感謝したい気分となる。

こうした瞬間をこよなく愛してきた孤独な徘徊者にとって、会話などしておられようか。それは絵筆を握り絵画制作に没頭しているときの心境に近い。人により違うと思うが、ぼくの場合は切実に孤独を必要とする。「ひとりで山に登って楽しいですか?」とよく聞かれる。「ひとりで絵を描いて楽しいですか?」と聞く人はいない。「楽しいかどうか」という問題ではない。必要としているのだ。

さらにそれが冬山になると、寒気との戦いになる。夏山とは比較にならない「過酷」が行く手を阻むようになる。
「なんでまたそんな季節に、わざわざ寒い思いをしに……」とよく聞かれる。言葉の裏に「アホやないの?」といった憐憫、理解不能……少し引いた位置から変人奇人を眺めているような心情がチラチラと見え隠れしている。豪快な物言いをする親類筋の老人から「里で女を相手に熱燗でも飲んでおればよいものを。モテん男のやることだ」と喝破されてカカと笑われたこともある。
しかしなんと言われようが、冬山には冬山にしかないものがある。それは「山岳の雪」であり、さらに追求して考えると「山岳の白」であるように思う。……そう。ぼくの場合は「山岳の雪を眺めに行く」というよりも「山岳の白を堪能するために行く」と表現した方がより近い。

これも人によりイメージはまったく異なると思うが、白はあらゆる色彩を内包しているように思われる。黒は黒でしかなくあるいは闇であって、恐ろしい吸引を感じることはあるが、こちらに迫ってくることはない。しかし「山岳の白」は、行く手を阻むように屹立する。目をいるような極彩色を次々に繰り出し、こちらを威圧し、あるいは拒絶する。その圧倒的な存在感。しかも感服し魅了されようとも、見つめてはいけない。そんなことをしたらたちまち目をやられてしまう。そこでやむなくゴーグルを装着する。人間は宇宙飛行士のように身体中を衣類やアイテムでがっちりとガードしないことには、「山岳の白」と対峙することは絶対にできない。

「制覇した」などという言葉は、ぼくの体験からは絶対に出てこない。エイハブ船長は海に投げ出され死を覚悟し長い長い年月に渡り宿敵としてきたモビィ・ディックの背中についに乗った瞬間、ただそれだけで「制覇した」と思っただろうか。ぼくは冬山に対し、「垣間許された」あるいは「垣間見逃された」と感謝するのみである。

………………………………………………( 完 )

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