走魔灯(4)

………………………走魔灯4

「……つい、谷底を見たくなったのです」
その男はかすれた声でそう言った。じつによくわかる。人間には不思議な心の動きがある。「怖いもの見たさ」というか「魔のささやき」というか。……ところが大いに驚いたのは、その次に彼が語った一種の告白だった。
「高所恐怖症?」
なんと彼は高所恐怖症だというのだ。そんな男が、よりにもよって真冬に穂高に登り、雪の尾根を歩き、しかも「谷底を見たくなった」というのだ。「あきれた」というか「救いがたい」というか。
「カナヅチが沖合に出て海に飛びこむようなものですね」とぼくは言った。プロのカウンセラーをしている友人女性と飲んだときに「高所恐怖症の人の方が、高いところから下を見たがる」と聞いて笑ったことがある。高所恐怖症にも色々なタイプがあるのだろうが、この逆説的とも自虐的とも言える奇妙な心理は、圧倒的に男性に多いらしい。これまた笑える。

ともあれ彼は滑落した。冬山では「よくある話」であり、この「よくある話」がいったい何人の命を奪ってきたことだろう。熟練の冬山クライマーでさえ、雪庇を見破るのはまず無理だ。不可能と言っていい。「ここが真ん中」というあたりを慎重に進めば、通常はまず問題ない。……しかし冬の山小屋で「昨日落ちたヤツは、真ん中を歩いていたらしい」と聞いて驚愕したことがある。「ここが真ん中」というあたりを慎重に進み、それでも落ちたというのだ。まさに「魔のトラップ」というほかない。

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「あっと思ったときにはもう、落ちてました」
その瞬間、彼はじつに奇妙な感覚を味わうこととなった。ショックも恐怖もなく、ただ落下してることはわかっていた。彼の場合ラッキーだったのは、滑落したすぐ下に出っ張りのような地面があったことだ。そこにも雪が積もっていた。しかし凍結はしていなかったので、雪はクッションのような働きをしたらしい。彼はまるで枝が突き刺さったように、ズボッとそこに落ちた。

「……で、オレが上から声をかけるとだね」
赤ら顔の男が横合いから口をはさんだ。「なんだその時もこんなヤツと一緒に山に登ったのか」とぼくは少々腹立たしく思った。しかし事実は全く逆で、その理由も後に判明するのだが、その時も高所恐怖症男がブラックニッカを誘って冬山に登ったらしい。事実というヤツは大変しばしば思いもかけない事実を示し、「どうだお前ごときが考えている陳腐な設定よりも、こっちのほうがよほど面白いだろう」とせせら笑ってぼくを打ちのめす。次回(最終回)で明らかにするが、「高所恐怖症男がブラックニッカと冬山に登った」談には、じつは衝撃的な事実が隠されている。

「……で、ザイルを投げてやったのさ」
ところがザイルがうまく届いたはずなのに、高所恐怖症男は動こうとしない。ブラックニッカは「……チッ、足でもくじいたか。気を失ったか」とさすがに心配になった。周囲を見回したが、ザイルをかけるような樹木や潅木などまったくない。「二次遭難だけは勘弁してほしいな」と思いつつ時間をかけて慎重に下り、ようやくそこに着いた。肩をゆさぶって「大丈夫かっ?」と聞くと、高所恐怖症男はうっとりとしたような目でブラックニッカを見た。「……で、コイツときたら」

「……もう少し見たかった」とつぶやいたらしい。

…………………………………(つづく/次回最終回)

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