魔の歌声(1)

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10月下旬。晩秋の深閑にひたる登山だった。……その日、ぼくは北穂3106mから一気に上高地まで降り、松本で1泊する予定だった。松本駅近くのビジネスホテルにでも一泊し、窮屈な風呂に浸かるひとときをささやかな楽しみとしていた。ところが「浮き石」にやられてしまった。

「浮き石」というのは一種の山言葉なので、御存知ないかもしれない。下山時などについうっかりと足を乗せ体重をかけた瞬間に、グラッと傾く石のことである。当然ながらバランスを失う。大きな石でも安心はできない。しかも大小の岩石ばかりがガラガラと続く「道なき下山道」でこれを見分けるのはまず無理だ。前回の「走魔灯」で書いた雪庇(せっぴ)同様、まさに「山岳のトラップ」、まさに「魔の石」である。

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不覚だった。これにやられた。「あっ」と驚いた瞬間にはもうバランスを崩し、70リットルのザックごと転倒してガラ場に放り出された。「ガラ場」というのは、斜面などが崩れて岩石ばかりがガラガラと転がっている、じつに殺伐としたところである。そのような場所では浮き石が多いことはわかっていたし、十分に気をつけていたつもりだった。それでもやられた。穂高に入って4日目。早朝の北穂から一気に下山していたことでもあり、疲労感が濃かった。不覚というほかない。幸い革の手袋をはめていたし、咄嗟に肘で上体をかばったので、上半身に怪我はなかった。しかし右足首を捻挫(ねんざ)してしまった。

さほど強い痛みではなかったので、「ああ良かった。大丈夫だ」と自分を励まし、ゆっくりと下山を続けた。……しかし半時間ほど歩いた時点で、座り込んでしまった。どうにも痛くなったのだ。予定を変更するしかなかった。地図を出して現在位置を確認し、一番近い山小屋を確認した。目視で太陽の位置を確認し、悩んでしまった。山小屋に寄る時間的余裕はなかった。「休みつつでもこのまま下山しないと、日没に間に合わないぞ」という結論だった。

下山途中で沢の水音を聞いた。捻挫はとにかく「まずは冷やすこと」と聞いていた。ザックを肩から外し、一巻持参していた包帯を出した。右足首をかばいつつ、沢まで慎重に降りた。包帯を丸ごと冷たい川水にジャボンとつけ、軽く絞って患部をぐるぐる巻きにした。「軽く圧迫するぐらいがいい」と聞いていたので、少し強めに巻いた。なんとか歩けそうだった。ほっとした。

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しばらく沢の音を聞きながら、半ば呆然と冷たい足首の感触を味わっていた。しかしオレンジ色に変化してきた木漏れ日を見て、ハッと現実に戻った。のんびりと休んでいる時ではない。「やれやれ」とため息をついて立ち上がったときだった。ふと動きを止め、耳をすました。森の奥の方から、じつに奇妙な声を聞いた。一瞬、「耳鳴りか?」と疑うほどにそれは高く、か細い声だったが、耳鳴りではなかった。
再び聞こえてきた。不思議な声だ。どのような言葉をもってきても違うような気がするが、それは「ヒイィーッ……、ヒイィーッ……」といった感じで、なんとも言えず清涼な、渓谷の岩石に沁み入るような声だ。ずっと聞いていたい気分だったが、そんなことをしている余裕はなかった。夕闇が迫りつつあり、それはあたかも「夜のとばり」が降りる時刻を告げているかのように、森の奥深い闇から聞こえてきた。次第に不気味になってきた。ぼくは足の痛みも忘れ、急いで沢から這い上がった。

……………………………………………( つづく )

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