魔のカーブ(6/最終回)

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「憑依/ひょうい」という言葉がある。気味悪い言葉だ。霊やなにか得体のしれないものが乗り移ることだ。そのような状態の人間を見たことはないが、「……もしやそれでは」と文雄を半ば疑っていた。「……もしや勝也が来て語っているのでは」と思うほどに、その状況描写は克明だった。
話の内容にも驚いたが、たんたんと語る文雄の表情をそれとなく観察しながら、ぼくは一種奇妙な感慨にとらわれていた。その夜の日記には、数ページにわたる怪談の詳細な記録とは別に、ぼくは以下のように書いている。「……それにしても不気味な微笑。人間にはじつに様々な笑みがあるが、これほど不可解で奇妙な笑みを見たことがない」

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前輪が宙に浮き、腹をガリッとすってからどれほどの時間が経過したのか、よくわからなかった。車が墜落したらまず命はないだろうし、それでも助かろうとする意欲もなかった。その瞬間をいまかいまかと待ちつつ、勝也はいつのまにか眠ってしまったらしい。なにもかも行き当たりばったりで生きてきた男だったが、「死ぬらしい」と悟った瞬間も、呆れるほど生への執着はなかった。このまま眠ったままで死んでしまうなら、それはそれでまあ仕方がないといった気分だった。

しかし彼の人生はここで終わりではなかった。ふと目を開け、まぶしい光を感じた。一筋の赤い光が車内に差しこんでいた。半ば某然と光を眺めていた鉄也は、ようやくそれが朝日だと悟った。疑うように「助かったのか?……まだこっちの世界か?」と何度か反芻し、上体を起こした。
外の様子をうかがうと、徐々に明るくなってきた。慎重に体を動かして助手席を見ると、女の子は横倒し状態でうずくまっていた。乱れた長い髪が横顔を隠しているので表情を知ることはできなかったが、たぶん眠っているのだろう。その方がいい。目覚めてヘタに動いたり騒いだりしたら、その瞬間に車がバランスを崩して墜落、ということもありえる。女の子はほっておくことにして、とにかく外に出たかった。しかし2ドアなので、外に出るためにはどうしても運転席のドアを開けるしかない。

助かったという安堵感を得ていくぶん生気を取り戻した勝也は、一刻も早く外に出たい気分になった。こんな狭い車内はもうごめんだ。グラッと来るのを覚悟ですばやくドアを開けて脱出するしかない。グラッと来なかったら、女の子を引っ張り出すことにしよう。彼はレバーに腕を伸ばし、運転席の背もたれをゆっくりと倒した。ドアを開けたらすぐに飛び出すつもりだった。ところが……

勝也はドアのガラスを見つめたまま、動かなくなってしまった。山間に発生した霧により、ドアガラスは朝露でびっしりと覆われていた。そこに残されていたのは数人の手のひらの跡だった。後ずさりするようにして後部シートに戻った彼は、誘導されるように後部ウィンドウを見た。やはり思ったとおりだった。そこにも手の跡が残っていた。しかもドアガラスよりも大勢の手だった。

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友人の話は終わった。あまりの話に、しばらくは声も出なかった。我々は居酒屋の次に彼が案内してくれたバーにいた。程よく混みあった室内の小さな円卓を挟んで飲んでいたのだが、周囲のざわめきや音量を下げたピアノの音色がスッと遠のき、漠とした白い霧で包まれたような奇妙な肌寒さを感じた。シャツの下の腕に鳥肌が立っているのを感じつつ、グラス半分ほどのバーボンを一気に空けた。この話についてもう少し聞いてみたい、あれこれ質問してみたいという興味はあった。しかしどうにも後味が悪い。この友人の不可解な笑みも気味が悪い。いくつかの複雑に交差する気分を感じつつ、ぼくは軽く手を上げて3杯目のバーボンを頼んだ。

「その後のことなんだけど……」とぼくは言った。どうしてもその点が気になる。
「勝也がどうなったのか、わかったのか?」
「……いや」と文雄は言った。現実の行動なり結果がどうであれ、とにかく勝也はもう現実世界にいないと彼は確信していた。なので調べるつもりもない。……ということらしい。
「調べて生き返るわけでもなし」と彼は言った。それともうひとつ理由があるらしい。

「あいつはね、馬鹿なマネをして、それで連れていかれた。まさに自業自得。そんなヤツを調べたらどうなると思う?……今度はこっちに寄ってくる。じつはいまこの席にもね……」
彼はぼくの肩のあたりをチラッと見てかすかに笑った。
「ちょっとやばいな。この話はこれでやめておこう」

…………………………………………………( 完 )

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