魔の絵本(2)エドワード・ゴーリー著「優雅に叱責する自転車」

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あなたも試しに、ちょっと想像してみていただきたい。……目を閉じる。リラックスする。心の中で白い紙を出す。心の中で鉛筆を握る。
さて、ゆったりとした伸びやかな線で自転車を描いてみよう。もちろんそう簡単にサラサラと描けるものではない。「自転車を知ってる」と言ったところで、実際にそれを見て「あ、あれは自転車」とわかる。……「知ってる」というのは、じつはその程度のことでしかない。実際の自転車は極めて複雑な構造をしている。生徒たちは「なにも見ないで自転車を描く」という課題に対し「え〜っ」という感じで、かなり困難を感じているはずだ。

そこで講師は次なる手を打つ。生徒が目を閉じ、少しずつリラックスし始めた様子を観察しながら、わざとスローな言葉を投げ与えて、リラックスを促す。

「……むずかしく考えることはないですよ」
「……たとえばこう考えてください。これから絵本を作るとしましょう」
「……あなたが自由に作る世界を絵本にするのです。その世界に自転車を走らせてください」
「……どうですか。走ってますか。それはどんな形の自転車ですか?」
「……そんなふうに自由に想像して描いてみてください」
「……つまり現実には存在しない自転車だっていいのです」

この追加説明は、じつは少々矛盾している。講師は最初の課題説明時には「ちゃんと走る自転車を描くこと」と言って若干のプレッシャーを与えておきながら、その後の説明では「現実には存在しない自転車だっていい」と言っている。
これは気が変わったからではない。自由に描く絵画制作にとって、なによりも大事なことはリラックスである。リラックス効果を存分に発揮させるためには、まず最初に「若干の緊張」をわざと与えておき、その後で気分をほぐすように言葉を与えていくほうが、より効果的であると言われている。

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そのゴスロリ嬢は明らかに目立っていた。なにしろ「資料なしで自転車を描け」という課題である。しかも15分で。ほとんどの受講生たちはちょっと焦った気分であれこれと悩みつつ、頭に浮かんだ自転車を再現している最中だ。
この課題はテストではないので「テスト」という言葉は一言も発していない。しかし「頭に浮かんだ自転車を再現」と伝えた時点で、彼らはちょっとした暗示にかかっている。つまりカンニング的に隣席の自転車を盗み見る人はほとんどいない。ましてこの講義は「イラストレーション」。受講しているのは近い将来の夢として、デザイナーやイラストレーターやクリエイターを志望している20代30代のタマゴたちである。程度の差こそあれ、どのタマゴにも「自分の絵に対するプライド」というものがある。周囲を見回す余裕などまったくなく、制作中のマイ自転車に没頭しているのが普通だ。

しかしごくまれに、余裕シャクシャクの10分ほどで完璧な自転車を描いてしまう人がいる。筆者がそれ以前に目撃したのはアラサー女性で、ドロップハンドルのカーブといい、金属ペダルの形状といい、おまけにシャフトには水筒付きという見事さで、一見して「ははあ、マウンテンバイクをこよなく愛しているな」とわかる作品だった。
なので筆者が席に接近した折、このゴスロリ嬢だけが頭を上げてニコッと笑った様子を見て「ははあ」と思ったのだ。
「ここにもマウンテンバイク嬢がいるらしい」
そこで彼女の作品をチラッと見ると……どうも予想と反した自転車が描かれている。ペダルもチェーンもない。
「完成ですか?」
彼女がうなずいたので、笑ってしまった。
「しかし……大事なものが足りないようですよ」
それとなくペダルのあたりを指差したのだが……。
「いえ、なくていいんです」

これにも笑ってしまった。時々こうした受講生がいる。間違いやミスを絶対に認めない。あくまでも「自分の世界ではこうだ」と言い張る。こうした生徒への対応は、「絵の講師」としては意見が分かれる場合がある。「双方ともに納得がいくまで議論する。納得がいかなければ絶対に了承しない」という友人もいる。その方針というか熱意には敬意を表するが、筆者はそうではない。わりと簡単に納得する。「ほほう、この人の世界ではこうなのか。面白いな」と評価する。なので修正や追加を求めたりはしない。
しかし彼女が描いていた自転車には別の意味で興味があったので、「後の講評で使うとしよう」と思った。その作品に描かれた線はじつにしっかりとして揺るぎのない「確信に満ちた線」だったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・…( つづく )