【 魔犬-2 】オオカミ王ロボ

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魔犬談・第1話。犬のルーツはオオカミである。されば、太古の人類が出会ったのは犬ではなく、じつはオオカミである。「人、犬と出会う」ではなく、正確には「人、オオカミと出会う」なのだ。……という話から始めたい。

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人類が犬と仲よくなりはじめたのは、いつ頃からか。諸説ある。「人、イヌにあう」(コンラート・ローレンツ)によれば、なんと5万年前に「人はイヌの飼育を始めた」とある。興味深いのは、そもそもの出会いの時点では「犬ではなくオオカミだった」と考えている動物学者が多い。(ジャッカル説もある)

ではなぜ人はオオカミに注目し、接近し、次第に仲良くなっていったのか。太古のことでありこれも諸説あるが、着目すべき重要な点としては「人とオオカミは驚くほど行動パターンが似ている」ということらしい。人もオオカミも(1)群れで行動する。(2)縄張り意識がある。(3)リーダーから下っ端まで整然とした順位がある。……という点で確かによく似ている。お互いに遠巻きにして観察し「ほほう。ヤツラの生活はじつによく我々と似ているではないか」と感心し、やがて親密感が芽生えていったというのだ。

さらにまた(4)共通の敵がいた。……という点で仲良くなった説がある。サーベルタイガーなどの夜行性猛獣は、しばしば人やオオカミを襲った。夜に襲ってくる猛獣は、人々にとってそれはもう恐ろしい天敵であったに違いない。しかしオオカミの群れが近くにおれば、彼らはいち早くその接近を察知し、吠えまくって仲間にそれを知らせた。太古の人々はその警報をすごく重宝し、やがてオオカミを手なづけて自分たちの近くに置こうとしたというのだ。まさに今の時代の番犬ルーツというべきか。

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かように人とオオカミの出会いは古く、長い歴史のあいだに数々のトラブルも発生し、幾多の悲劇も生まれた。その代表とも言える物語が「オオカミ王ロボ」である。
「シートン動物記」といえば、どの小学校の図書室にも必ずと言っていいほど並んでいる児童文学不朽の名作である。出版社により異なるが、全6巻から8巻ほどあり、46話ほどが収録されている。その第1巻・第1話に登場の伝説のオオカミ談(実話である)を読んで泣いた人も多いのではないだろうか。

かく言う筆者も、小学生時代、図書室でなにげなく手にした「シートン動物記(1)」で「オオカミ王ロボ」を読んですっかり夢中になった。これほど生き生きと描写されたオオカミを読んだことはなかった。たった5頭の精鋭オオカミを従えて現れる巨大オオカミ。「一晩に250頭の羊を殺した」「殺した羊の肉は全く食べなかった」「羊を殺すのが面白いからやったとしか思えない」といった極悪非道ぶり。「遊びで殺しに興じる」動物を初めて知った衝撃は大きかった。その独特の遠吠えを聞いただけで「ロボだ!……ロボが来た!」と青ざめるカウボーイたち。
「なんてかっこいいオオカミなんだ」と思い、ロボに何度もワナを仕掛けて捕らえようとしたシートンを憎んだ。「嫌いになった作者の語る物語に夢中になる」というのも妙な話だが、その勢いで全巻を読破した。全物語を読んだ後も「ロボの話が一番よかった」という結論だった。「オオカミ王ロボ」だけを再読した。

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その後小学校を卒業し、中学校、大学と進学し、社会人となってからも「シートン動物記」を読む機会はなかった。月日は流れ、50歳となった頃、ふと「少年時代に読んだ名作を再び読んでみたい」という気分になった。しかし文庫で読もうとは思わず、古書店やBOOK OFFの児童書コーナーでハードカバーを探した。見覚えのある「シートン動物記」のハードカバー(偕成社)をついに見つけたときは、なにかしら熱いものが胸にぐっと来るほどうれしかった。

ざっと40年を経て再び「シートン動物記」を手にとり、バーボンをやりつつしみじみと表紙を眺め、大きな文字で「オオカミ王ロボ」をじっくりと読んだ。挿絵に見覚えがあった。なつかしい記憶が蘇った。父のアトリエに行って白い碁石を持ち出し、「一晩に250頭の羊を殺した」という数を実感しようとして、机の上に並べ始めた。ところが白い碁石だけでは足らず、黒い碁石も取りに行った。ようやく250個を並べ終え、改めてそれを眺めて呆然としたものである。カウボーイたちの悔しさも、すごい金額の「ロボの首」賞金もじつによくわかった。しかし怒ったカウボーイたちが仕掛けたワナに共感することはなかった。

そしてついに、現地のカウボーイに請われて登場した動物学者シートン。あの手この手でワナを仕掛けてロボと知恵比べを重ねているうちに、「まずはロボの配下を狙う」という手段に出る。そしてついにメスオオカミを捕らえ、助けに来たロボを捕まえるのだ。なんという卑劣さ。少年時代ではこの手段のみに心を奪われ、怒りが先行し、シートンの心情までを察知することはできなかった。しかし自分が50歳となり、シートンが34歳の時に書いた「オオカミ王ロボ」をじっくりと読んでいくと、何度も繰り返してワナを次第に巧妙化させてゆくシートンの悲しさ、対決しないではおれなくなった彼の立場の悲しさ、そうした心情をしみじみと感じることができる。パタンと本を閉じて「……さすがに名作だ」とつぶやく至福。これはやはり本ならではのものであろうと思う。

( 次回はシャーロック・ホームズ・シリーズ最大の長編「バスカヴィル家の犬」)