【 魔犬-3 】バスカヴィル家の犬

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魔犬談・第2話。「バスカヴィル家の犬」。
「バスカヴィル家」と聞いただけで、すでに怖い。そんなことはないですか。英国人はどうか知らないが、筆者が受けるイメージでは「バスカヴィル家」と聞いただけで、なにやら恐ろしい気配がじわじわと地を這って漂ってきそうな気がする。ドロドロとした古い因習にとらわれた、おぞましく、不可解で、エドガー・アラン・ポー的な事件が、潜在的に必然的に絶対に発生しそうな気がする。これが「ハンクス家」だったら、大した事件は発生しそうにない。まあ、スコッチテリアが娘の小指を軽く噛んで大騒ぎになった程度のような気がする。

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さて「バスカヴィル家の犬」。この事件はシャーロック・ホームズ・シリーズ最大の長編である。長編であるがゆえに「あのホームズでさえ、かなり手こずった難解事件」と考えていいだろう。実際にホームズは作中で依頼主に向かってこのように述べている。
「……これはよほど込みいった事情がありますね。……(中略)……私がこれまでに手がけた五百何件かのうちでも、これほど複雑なのはありません」(延原謙 訳/新潮文庫)

御存知のようにホームズを愛する人は大変に多い。米国ではシャーロキアン。英国ではホームジアン。こうしたフリークレベルの人々も大勢いらっしゃる。なので「ホームズのどの話が好きか」ということになると、読者の好みやら「推理小説としての評価」やらで、意見は様々に別れてくるのだろう。あなたはどうですか。筆者は迷うことなく「バスカヴィル家の犬」である。理由がある。

筆者は中学生時代に、図書室にあったホームズを全巻読んだ。その後ざっと45年が経過し、その内容はあらかた忘れてしまった。……が、「バスカヴィル家の犬」は筆者にとって別格の感がある。かなり鮮明に覚えているシーンがある。じつはその事件の経過や顛末は、他のエピソード同様にあらかた忘れてしまったのだが、「怖かったシーン」のみが記憶にまざまざと残っている。中学生当時、頭の中で描いて震撼した恐ろしいワンシーンのみが、いまだに強烈な印象として残っているのだ。他のホームズ物語も夢中で読んだはずだが、こうした「記憶に残っているシーン」というのはない。その点をよくよく考えてみると、これは面白い現象のようにも思える。そこで今回、魔犬談を書くにあたり、「バスカヴィル家の犬」(新潮文庫)を手に入れて、45年ぶりで読んだ。

結論から言えば「やはり面白かった」というのは当然だが、改めて強く感じたのは、「この話は(他の事件に比べて)叙景が特にすばらしい」という点だった。つまり事件の発生する舞台、西部イングランド、夜の沼沢地、重く濃厚な霧、そこで伝えられてきた奇怪な魔犬伝説、ついに出た怪物……そうしたビジュアル効果がじつにすばらしい作品のように思える。

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そのようなわけで今回、筆者は「怖かったシーン」登場がいまかいまかという期待で読み進んだ。なにしろ不気味で面白い話なので、語るとなるといくらでも大いに語ってしまいそうである。しかしこの話は多くの人が既読の名作だとはいえ、推理小説なので、未読の人に対しいわゆる「ネタバレ」的な無粋なことは絶対にしたくない。ではどう語るのか。あれこれ真剣に悩んだのだが、理想としては、
(1)未読の人には「面白そう。読んで観たい!」と興味を与え、
(2)既読の人には「おおっ。もう一度読んでみるか!」といった気にさせる。
……そのような魔犬談にしたい。

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さてさてどうすればいいか。さらに真剣に悩んだのだが、こういう紹介の仕方はいかがだろうか。最新の技術を駆使したハリウッド映画「バスカヴィル家の犬」が公開されたと勝手に想像する。その前宣伝を大いに語りたい。言うまでもないことだが、前宣伝にネタバレはありえない。なので未読の人も安心して読んでいただきたい。

まず冒頭はこうであろう。西部イングランド特有の、重く濃厚な霧が画面全体を覆っている。夜の沼沢地をスーッと徘徊する夜行悪魔のような視界。
「全世界、震撼!」
第一声の字幕は、こうでなくてはならない。
次に「ハアハア」とかなり苦しい息ぎれの音。誰かが必死で走っているのだ。
「大富豪バスカヴィル家に伝わる……恐怖の……魔犬伝説」
観客の視線が「魔犬」という文字に行き着いたそのタイミングを狙い、「グワッ」とおどり出る真っ黒な影。ランランと輝く目。青白い炎のように輝く全身。さらに原作を尊重するならば口からグワッと炎を吐かせたいところだが、それをやって一歩まちがってしまうと観客から失笑を買う恐れがある。欧米人は大いに怖がるかもしれないが、日本人にとっては「口から火を吐くのは昔っからゴジラに決まっとる!」という既成事実がある。なので涙を飲んで「火を吐く」のは割愛。「ウワーッ」という男性の悲鳴。その後はフラッシュバックのように続く緊張感みなぎるアクティブシーン。
(1)ロンドンを走るホームズ。「追え!ワトソン!あの馬車を追うのだ!」……猛スピードで走りさる馬車。
(2)伝説シーンのワンカット。バスカヴィル卿の喉にガブリと噛みつき、血のシャワーで赤く染まる魔犬がこっちをジロッと見る。
(3)恐怖と緊張でこわばった表情のホームズ。「来るぞっ!」……拳銃の撃鉄をカチリとあげる音。「ダダーン」(暗闇で炸裂する発射音)。恐ろしく低い魔犬の咆哮。
(4)スーッと引くカメラ。暗闇に浮かび上がる意味不明の賛辞。「西部イングランド。銀幕の深夜……沼沢地に眠る伝説の怪物を掘り起こし……かくも美しくおぞましい悪夢の夜が完璧に復活……あのホームズを震撼させた驚異的なディストピア」

……なんてので、いかがですかねぇ。どんな話か全然わからん?
映画の前宣伝なんて、そんなものなのだ。

( 次回最終回は、映画「遊星からの物体X」に登場の魔犬 )