【 生物学魔談 】魔の寄生・ハリガネムシ(2)

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場所は小学校である。相手は教員である。いかにぞんざいな言葉を投げられたとはいえ、いまの筆者であれば、こんな場所でこんな相手と口論を始めたところで、いい結果になるはずもないという予想を即座に立てる。穏やかに回避する行動をとるだろう。しかしこのとき、筆者はまだ若かった。大学生であり、教育大学の美術教育学科に籍を置いていながら、教授や管理職教師といった人種に一種の反感を抱いていた。「どいつもこいつも上から目線で世の中を見やがって」とでも言うか、そうした反感だった。

さらに言えば、筆者は目の端で少年を捕えていた。……そう、教室の真ん中に立ち、ビーカーの中の惨状と、悲鳴をあげるクラスメイトたちを交互に見て、真っ青になっていた少年だ。
じつは筆者が担任に続いて教室に入り、その状況を把握したとき、最初に注目したのがこの少年だった。「ははあ、コイツがこのカマキリを持って来たんだな」という推測は即座に立った。「よりにもよって、こんなところで……」と、同情した。さっさと気絶して無意識の世界に逃げてしまった担任はともかく、一番ショックを受けたのは、おそらくこの少年だろう。この少年のためにも、なにか声をかけておきたかった。

出入口に立っていた教員は教頭先生だった。しかし筆者にとってそれは知る由もなかった。「なんかガンコそうな教師が出てきやがったぞ」といったイメージでしかない。
「そんな説明はどうでもいいっ!……そのビーカーを持ってこっちに来い!」
じつは教頭はその職務上、筆者がこの学校に来ている理由をある程度把握していたらしい。なので「教授の使い走り学生」程度に思っていたのだろう。それでこのようにぞんざいな命令口調になってしまったのかもしれない。ともかく彼は登場した時から怒り爆発状態で、こうした態度がかえってそのときの筆者に失笑を与える結果となった。

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「どうして説明がいらんのです」わざと冷静な口調となった。筆者にはそういう一面がある。「……まずは怖くないことを知らせるべきでしょう」
「いい加減な説明などいらんっ!……さっさとそれを持ってこっちに来い!」
「いい加減な説明!……まだ説明していないのに、どうしてそれがいい加減だとわかるのです。これはハリガネムシという寄生虫で、御覧のとおり、今まではカマキリのお腹の中に寄生していた。しかしなにか理由があって、そろそろ外に出たいと思った。それで出てきたら、なんとビーカーの中だった。べつに人間に乗り移ろうとしているわけじゃないですね」

話の途中から教頭は出入口から消えていた。援軍でも探しに行ったのだろう。そんなにビーカーを持ち出したいのならさっさと自分で持ち出せばよいものを、彼はそれをしなかった。じつは彼もまたハリガネムシが怖かったのかもしれない。筆者は教員が背中を向けたときから、児童たちに向き直って説明を続けた。ひととおりの説明をして気分が晴れたのでなにかブラックな冗談を言いたい気分になったが、さすがにそれは辞めておいた。
「いいですか、みなさん。途中で逃げたくなっても、人の話はちゃんと最後まで聞いてから、逃げましょうね」
数人が「ハーイ」と元気ない返事をしたのが、じつにおかしかった。

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「さて援軍は?」と思ったそのとき、数人の先生がドヤドヤと教室に入ってきた。筆者はパッと手を挙げた。作戦はできていた。
「ここです。担架で保健室に運んだ方がいいかもしれませんね」
さっきの教師は?……と思って援軍を見たのだが、どこにもいない。この教師に対してはもう少しなにかジョークを投げつけてやりたい気分だったので、これにはがっかりした。女の先生を含む数人の先生が担任を介抱しているときだった。ふとビーカーを見て、ギョッとした。なんと本を乗せたビーカーの小さな口から、ハリガネムシが外に出ようとしていた。これは困る。あわててビーカーに駆け寄り、手で本をおさえてフタをしたまま廊下に出た。そのまま廊下を走って外に出た。

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校庭の隅でビーカーを逆さにした。地上に落ちたカマキリはピクリとも動かなかった。親指と人差し指で首をつまんで調べてみると、完全に息絶えていた。立派なカマキリだったが、まるで紙細工みたいに軽かった。背後に足音を感じてふりかえって見ると、先程の少年だった。なにか言うかと思ったが、なにも言わない。潤んだ目でカマキリをじっと見つめているだけだ。カマキリを彼に渡した。
「どうする?……このへんに埋めるか?」
彼は首を横に振った。黙ってこちらに背を向け、そのまま行ってしまった。気持ちは痛いほどによくわかった。
ふと足元にうごめくヤツを見た。
「お前はいらんそうだ」
ふとコイツに対してなにか冗談を言いたい気分になったが、いい冗談が思いつかなかった。
「……まあ、死んでいただく理由もないしな」
さすがに手で触るのはイヤだった。脇の灌木から小枝を拾ってきて、それに引っかけて灌木の下に押しこんだ。
「……恩返しをしよう、などと思うなよ」

(つづく:次回最終回。この時点で筆者も知らなかったハリガネムシの魔の寄生ぶりを紹介)